2015年5月20日水曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人53

 ただ、問題はこちらよりも看護記録の方だ。なにしろ、看護記録には毎日の患者の様子が書かれている。
 つまり、小林さんがESによって何を感じ何を訴えていたのかが書かれているはずだ。
 野間は大きく息を吐いてから、看護記録の方に手を伸ばした。今と同じく、一日一行と短いながら、入院してから毎日の様子が書かれてある。

 「昭和三十年四月三日 本日入院。落ち着いて過ごす。配膳など周りを見てやれている。」
 「昭和三十年四月四日 周りの患者から問われ、すぐ帰りますからとこたえている。身なり整っている。」
 「四月五日 いつまでもここでお世話にはなるのは申し訳ないですから帰りたいと言ってくる。」

 野間は日付をたどる。
 ESが初めて行われたのは、入院三日目。四月六日ということになる。

 「四月六日 もう帰りますからと言うが、配膳や掃除を手伝う。」

 初めてESを行ったはずだが、取り立てて記述がない。次の日にも、その次の日にも、ESに関する記述は見られない。一週間後の二回目の時にもそうだ。やはり記述がない。
 ESは治療であって、看護記録の対象ではないのだろうか。
 そう気を許していたら、記述が出てきた。
 一ヶ月後、「五月三日 ESをやめてほしい。早く家に返してほしいと何度も訴える。」とある。
 その五日後の記録。
 「五月八日 『こんなに何度も電気をやるから殺されるのじゃないか』と言っている。」
鍵と鉄格子のある病棟で、訳もわからず電気ショックを受ける。それも、殺されるかもしれないという恐怖にさいなまれる。
 この恐怖は如何ほどのものであろうか。

 さらに先に進む。
 「五月二十日 『私は罪を犯したのでしょうか』とまわりに言っている。」
 罪とは何か。その後の記録を見ていくが、はっきりとは出てこない。ただ、段々にだが、明らかに状態が悪くなっている。言葉が雑になり、行動が反抗的になってきている。
 「五月二十五日 『先生から話をするように言われるが、やはり私が何か知っているということか』とこわい顔でたずねてくる。」
 「五月二十七日 声掛けに応じないことが増えた。あからさまにかぶりをふることもある。」
 「五月三十一日 いきなり『俺は何も知らない』とさけんで同室の患者を叩く。」
 礼儀正しく、控え目な印象の小林さんだったが、この日、初めて暴力をふるう記録が出てきた。


(つづく)



 以前、精神科病院での実習を終えた学生から、指導者である精神保健福祉士から受けたとする指導内容を聞いて愕然とした。一種の焦燥感のような、危機感のような、そんな感情を持った。
 その学生によると、精神科病院勤務のその精神保健福祉士はこう言ったそうだ。

 「私はね。患者を退院させることに傾きすぎた今の日本の状況をおかしいと思ってます。もっと冷静に、客観的にその患者が退院できるかを判断するべきだと思うんです。

 確かに一見正論に聞こえる。
 しかし、それを精神障害を持ち、過酷な環境を強いられてきた方々に対して言えるだろうか。家族や人生を奪われてきた人々に言えるのだろうか。
 私は、偏っていると言われても、それでも退院を推し進めるべきであると思う。
 もちろん、どのような方法で、どのような速度で、といったことは個別化されなければならない。ついには退院に至れない方もいるだろう。
 しかし、病院で一生を終えてもいいなどと精神保健福祉士が判断できることではないし、するべきではない。
 私が精神科病院で出会った、退院が叶わずに亡くなった多くの患者さんを思うといたたまれない

 今回の物語は、この想いが原点となっている。
 読み終えた方々が、精神科病院に長期間入院している方々の早期退院を願わずにはいられなくなることを目指して書き進めたい。





 
 

2015年5月14日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人52

 ようやく、一呼吸つき、他の部分にも目を向けられた。
 よく見てみると、分厚いそのカルテは、大きく二つに分かれているようだ。五対一ぐらいの分量。
どうやら、その少ない方が医師のカルテで、大きい方が看護記録のようだ。
 医師のカルテには、患者の写真や住所などが書かれたものが一番上にある。今ではフェイスシートとも呼ばれる、患者の個人情報が書かれたものだ。住所は、日本海側の小さな村の場所が書かれていたようだが、二重線で消されている。その上に、新たに書き加えられている住所は、この病院のものだ。
 これは何も珍しいことではない。両親が亡くなり、面倒を見られる家族がいなくなれば、生活保護を受給することを考えて、住民票を病院に移動するのだ。この時点で、実家の家も処分されている場合も多い。そうなれば、当然、退院の道は大きく閉ざされる。

 もう一つの大きな束が看護記録。表紙に同じ写真が貼られている。こちらには、フェイスシートはない。名前と写真のみ。
 一枚めくると、墨書きで細かく記述がある。毎日の様子を箇条書き的に書いてあるようだ。毎日、基本的には一行ずつ書かれている。

 野間は、医師のカルテを取り直し、大きく深呼吸した。
 他の患者のカルテであったが、以前見たカルテにあったESの印鑑の無機質な羅列。あれがこの小林さんのカルテにもあるのではないだろうか。いや、きっとある。そう思おうと、やはり以前見たESの記憶がよみがえり、ぐっと胃の辺りが重くなる。
 それでも、ゆっくりではあるが、意を決して開いた。
 最初のページの記述に目を向けようとするができない。無意識的に、引っ張られるように、ぱらぱらとめくる。ドキッという動機とともに、やはりそれを見つけてしまった。
 圧倒的な存在を誇示するかのように、それはそこにあった。

 「ES施行」

 ゴムで作られた印。ややかすれているが、太く、確かに、無機質に。それは、一つではない。間をおかずにいくつも連なっている。どこまでも続いているような、終わりの無いような。
 ぱらりぱらりとページをめくる手が少ししびれてきたような気がする。それでも、止められない。めくるたびに、鈍く、重く、それは姿を現し続ける。繰り返し現れる姿に、野間は目まいを覚えた。それでも止まらない。呆然とただめくる動作が惰性となって、ただ動いているような、そんな錯覚にも陥った。


(つづく)



 

2015年5月7日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人51

 「なっなっなんでですか? なんでそんなところに。」
 藤さんは立ち止まって、少しだけ驚いた顔をした。そして、一瞬だけ、微かに笑みを見せただけだった。

 野間は、藤さんと別れた帰り道。暗い小道を歩きながら、考えをめぐらせていた。
 やはり強制的なESが山田さんの妄想を活発にしてしまったのだろうか。その可能性は否定できない。過去のドクターやナースが何をしたのか。精神科に関わる、あとに続く私たちはそれを知る必要がある。しかし、その行為を行った個人を責める権利は無い。
 もちろん、悪意をもって行った人がいるとしたら、それは責られるべきだ。しかし、善意をもってそれを行ったのだとしたら、そうするべきではない。それが正しかったのかどうかは、時間の経過の中で、自らが自らを問うことになるはずだからだ。山崎先生や藤さんのことを考えると、そう思わずにはいられない。
 そうなると、今の自分にできることはなんだろうか。過去を知り、それを踏まえた上で、今の精神科病院が患者さんにとってより良くあることができるように努めることだろう。退院できない状態、状況をつくったのだとしたら、それを今から精算しなければならない。本来、退院できていたはずの多くの長期入院患者さんたちが、退院し地域に戻るということだ。

 次の日の朝、野間は小林さんの病棟の倉庫に向かった。
 ほこりを払いながら、背の低いロッカーから、小林さんの名前が書かれてあるカルテの束を探す。
 すると、隅の方に鉛筆の走り書きで書かれている小林さんのカルテを見つけた。そっと抜き出し、近くの段ボールの上に乗せた。
 ゆうに30センチ以上はあるその大きなカルテのほこりをきれいに払う。荷作り紐を慎重にほどくが、古く変色しているため、やはり端の方が一部パリパリと崩れ落ちた。
 更に慎重に、とりあえずで表紙にされている便箋様の割と新しい紙を外すと、カルテの1枚目が出てきた。
 まず目に飛び込んでくるのは、モノクロの顔写真だ。おそらく、小林さんであろう人物が写っている。明らかに若く、そして、険しい。写真を取る人物をにらみつけているような、困惑したような表情。今の小林さんからは想像もつかない。
 何を思っているのだろうか。しばらく野間はそこから進めなかった。


(つづく)