2014年12月25日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人39

 野間は、すぐには閉鎖病棟に向かわなかった。
 閉鎖病棟の担当の室長に、山田さんの話を聞いたり、相談室の個人記録を見てみようと思ったからだ。
 
 相談室に着いたが、やはり室長はいない。
 とりあえず、棚に並ぶ入院患者の個人記録を探すことにした。
 山田さんの記録ファイルはすぐに見つかった。見つかったが、そのあまりの薄さに野間はがっかりしてしまった。
 一応、開いてみたが、名前や住所などの紙が一枚挟まっているだけだった。
 今もそうだが、昔からそれだけ動きのない患者だったということだろうか。
 精神保健福祉士が支援に動くのは、事例性と言って、生活上の問題が出てきた時に関わりが始まる場合が多い。
 もっとも、この病院に精神保健福祉士が採用されたのは、わずか10年ほど前のことだ。それも関係しているのだろう。
 山田さんが入院したのはもっとずっと前なのだから。
 
 そうこうしていると、室長が帰ってきた。
 野間が声をかけると、いつものようににこにこして返事をする。
 山田さんの話をすると、その笑顔がさらに強くなった。
 野間が、どうしたのか尋ねると、室長は「新人研修のときのリベンジだね〜。」と言った。
 さらに、「1つ言っておきますが、彼は多弁な人ですよ。」と言った。そして、一呼吸おいて、「受験生。頑張って下さいね。それじゃあ!」。そう言って、にこにこしながら出ていった。
 
 野間には訳がわからなかった。
 「山田さんが多弁で、自分が受験生?」
 よく分からなかったが、とにかく山田さんに会うしかなさそうだ。そう思い、野間は閉鎖病棟に向かった。
 
(つづく)


 

2014年12月9日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人38

 「朱美ちゃん。いいじゃ〜ないかぁ〜。 」星原が面白がって言う。
 野間は気になったが、先輩のいたずら顔が治まっていないので諦めた。この顔になったら、ちょっとやそっとじゃ終わらない。

 野間は諦めて、ナースステーションを出ようとしたが、思い出したように成宮に聞いてみた。
 「そういえば、小林さんが、自分は水草だって言うんですがどういうことなんでしょう?」
 「ん? それはお前、、ああ!そうだった。」
 「え?」
 「あっ!いやいや。えっと。う〜ん。あっそうそう。」
 何かひらめいたように言った。
 「俺はわからんが、水草って言ったの誰かいたなあ? ああっ! 山田さんだ。山田さんに聞いてみるといいかもしれないぞ。うん。そうだそうだ。」
 なんだか棒読みっぽい言い方で変な感じだが、一応、尋ねた。
 「山田さん?」
 「おおっ。小林さんと同じ時期に入院した患者だよ。会話できるかどうかはお前次第だがな。わっはっはっは!」面白そうにそう言い放った。

 山田さんとは、隣りの閉鎖病棟の患者さんだ。
 終日鍵がかかる閉鎖病棟に入っているだけあって、病状は重い。誰かに危害を加えるわけではないが、他からの声掛けには反応せず、ムッツリと怖い顔でただ座っている。
 野間は、参ったなぁと思っていた。
 実は、担当の病棟は違うが、就職してすぐの研修で閉鎖病棟に入った時、山田さんに何度も話しかけたが何の反応もしてもらえなかったことがあるからだ。その時もしつこく食い下がったが、結局、あえなく撃沈した。あの山田さんから話を聞くなど、無理だろうと思っていたのだ。

 しかし、この面白がって試すような成宮の顔を見ると、できないとは言えない。
 野間は平静をよそおい、「なるほど。では、聞いてみます。」と答えた。

(つづく)



 

2014年12月2日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人37

 「クレームぐらいでがたがた言ってんじゃないよ。それから、経営のことは俺達には分からんが、ああいう役割の人間も必要だろ。」
 「そうそう。」
 「わっ! 先輩。」
 「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン。」
 「どうしたんですか。急に。それに、岩田さんが必要って?」
 「うん。では、迷える子羊に室長語録帳から答えてしんぜよう。」
 「よっ! 出た! 愛の伝道師!」星原が面白がって景気をつける。
 「おほん。精神科病院は、患者さんのために真面目にやればやるほど儲からない仕組みになっているのよ。」
 「真面目にやるほど儲からない、ですか?」
 「そうそう。医者が外来で、患者さんのために面接を1時間やったって、3分で終わったって、病院に入るお金は一緒なのよ。それで、診察料は全体的に低く抑えられてるんだからたくさんやらなきゃ病院は赤字になる。臨床にいる私たちは患者さんのためにやりたいけど、それじゃあ病院が潰れてなくなっちゃうってこと。おまんまの食い上げってこった。べらぼうめぇ!」
 「じゃあ、岩田事務長と同じに、精神保健福祉士も病院の経営のことを優先して考えろということですか?」野間は、納得できないといった顔で言った。
 「違うわよ。全く無視していいとは言わないけど、経営を考えるのは私達の役割じゃないわ。ソロバン野郎の役割よ。私たちは患者さんのために何ができるかを考える。だから、当然、ソロバン野郎とぶつかるのよ。でもそれでいいの。そのせめぎあいが無ければバランスは保たれない。」
 野間は、聴き入っていた。いや成宮先生も星原もそうだ。じっとその演説に耳を傾けている。
 「つまり、ソロバン野郎とケンカしていいのよ。もちろん、ペガサス流星拳を繰り出すような本当のケンカじゃないわよ。どっちが正しいのか競い合う、という方がニュアンスが近いかな。そして、これだけは忘れないで欲しいんだけど、常に私達が完全な正義で、相手が完全な悪ではないということ。そう見えてしまうけどね。私達には私達の正義があるように、相手にも相手の正義がある。あのソロバン野郎にもね。」
 「岩田事務長にとっての正義、ですか?」
 「そうそう。単なる金もうけではない正義よ。・・・知りたい?」先輩はにこにこして言った。
 野間はもちろん、「はい。知りたいです」と答えた。すると、「ダメよ~。ダメダメ」。

(つづく)



 

2014年11月11日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人36

 精神障害者の暗い歴史の一つだ。
 野間も学校で習ったので当然知っていた。知ってはいたが、知識として知ることと、体験として知ることは大きく異なる。その現実を前に、野間はただ圧倒された。
 小林のおいの迫力に押されたのではない。どうすることもできない精神科医料の歴史に降参したのだ。


 しばらく呆然としていると、星原がナースステーションに入ってきた。
 「おう。どうしたよ。カエルがケツの穴に爆竹入れられたみたいな顔して。」
 「おっ。おおっ。あれ? そっちはどうした?」
 「ああ。グループワークの後の参加患者のモニタリングに来たんだよ。面接じゃなくて、それとなく様子を知りたくてな。」
 「おお。なるほど。」
 「っで、何かあったか?」
 野間は、小林のおいからの電話について話した。
 「あのソロバン野郎! やりやがったな! 絶対わざとだよ。なぁ!」
 「おお。俺もそう思う。」
 「バチッと言ってやろうぜ。バチッとな。」
 「おう!」
 「じゃあ、そういうことで頼むわ。」
 「ん? 頼むってどういうことだよ。」
 「え? ハッハッハ。実は、うちのOT室でさぁ。スタッフの増員を頼んでんだよ。室長も歳だろ。あんまり負担かけらんねえからさ。それで、人事に関しては、あのソロバン野郎の顔色を伺うしかないってことよ。まぁ俺も大人になっただろ。そういうことですまん。」
 「おっおお〜。それうちもだわ。」
 「お? おお〜〜。マジかぁ〜。」
 「おっおう。」

 「こらオットセイども! おうおううるさいよ!」
 「おっ、成宮先生。」


(つづく)



 

2014年11月4日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人35

 野間は、慌てて釈明した。
 無理に退院させようとしているのではないこと。お金は現在かかっていないし、かかる場合には本人に説明した上で決めてもらうつもりだということ。
 それを聞いたおいからは、本人の後、家族にも確認するように念を押された。
 野間は、分かりましたと答え、ようやく苦情から解放された。


 医療機関で規定の治療やリハビリを行うと診療報酬が請求できる。つまり本来患者から10割で支払ってもらうところを、保険証を使って、保険組合などに、例えば7割を請求できるというわけだ。患者は、本来より低い金額で医療やリハビリが受けられる。
 ただ、低いといっても3割は患者の自己負担になる。むやみやたらに行うわけにもいかない。
 一歩の会では、診療報酬として請求するかどうは、1クール終わってから考えるということにしていた。もちろん、参加患者の意向を優先して。

 それから、一生入院させるという約束。
 これは、時代背景も影響している。小林さんが入院した35年前、昭和41年はライシャワー駐日大使刺傷事件が起こった翌々年だ。
 ライシャワー駐日大使刺傷事件とは、ライシャワーさんというアメリカの駐日大使を、精神障害を持つ少年が刺したという事件だ。戦後時間が経過していたとしても、日本にとってアメリカは戦勝国である。そのアメリカの代表である大使を刺傷したのだ。日本全体が震撼し、その矛先が精神障害者に向けられる。「野放し」という言葉が新聞紙面を覆い、精神障害者に対する偏見・隔離強化は不可避のものだった。
 精神障害者は危険で何をするかわからないから隔離されて当然の存在。そのような偏見は、本人はもちろん、家族をも追いつめ疲弊させた。そのような背景から、おそらく家族が望み、医師が請け負った。


(つづく)



 

2014年10月23日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人34

 「私はただ、流れの中に浮かんでいる水草のようなものです。」
 それだけ言って、会釈をして立ち去った。

 水草であるとはどういうことか。野間はその意味を掴めず、ただ見送るしかできなかった。
 野間が呆然としていると、ナースステーションから緊張した声で呼ばれた。
 「ちょっと野間さん。大変よ!電話に出て!」
 慌ててナースステーションに飛び込むと、看護師が受話器を渡しながら「小林さんの甥ですって。無理に退院させようとしてるんじゃないかって怒ってるのよ。」と。
 野間が緊張しながら受話器を取ると、大きな怒鳴り声が響いた。
 「おい!! どういうことだ!! 今更退院なんて聞いてねえぞ!! お前ら一生面倒見るって言ったじゃねえか!! それを今更!! ふざけんな!! 」
 急な怒鳴り声に、野間はびっくりした。慌てて、何と答えていいか分からない。とりあえずだが返事をした。
 「ちょっちょっと待ってください。そんなに怒鳴られたら返事ができません。落ち着いてください。」
 すると、ころっと声の調子を落として言ってきた。
 「いいかい。こっちは無理なことを言ってんじゃねえんだよ。約束を守って欲しいってだけだよ。分かるか?」
 「約束ですか?」
 「そうだよ。おじを入院させる時、一生病院に入院させて面倒を見るって言ったんだよ。分かったか。
 「一生ですか?」
 「ああ。そうだよ。㉚何年も前のことは知らねえって言うんじゃねえだろうな!」
 「いや。そうではありません。そのような約束を、私どもの病院がしたということを否定するつもりはありません。時代的にもそういうことがあったと聞いていますから。」
 「おう。そうかい。それなら良かった。じゃあ、その退院グループワークとかなんとかいうのを中止してくれるな。
 「えっ。退院グループワークですか? それは小林さん本人から聞いたのでしょうか?」
 「いや。病院から送ってきた、いつもの入院費の支払い領収書に紙が入ってたんだよ。」
 「紙?」
 「ああ。あなたの家族は退院グループワークに参加しているので集団精神療法ってので、金の請求をする可能性があるってさ。」
 野間は、誰の仕業かすぐに思い当たった。


(つづく)



 

2014年10月13日月曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人33

 あれから一週間。
 第二回目のグループワーク、一歩の会の日が来た。担当は作業療法士の星原。
 順番を決める時、「俺だ俺だ」とうるさいのでみんなが譲った。

 結局、小林は来なかった。朝の検温の時に声をかけたら、「はい。行きます!」とはっきりと答えていたのに。
 会自体は上手くいった。人前に出るのが好きな星原は、場慣れしているようで、ジョーダンを交え、うまく盛り上げながらすすめていた。
 しかし、野間は、小林のことで頭が一杯だった。

 終了後、星原から「どうだ! 上手く行っただろ。」と言われたが、持ち上げる言葉は言えなかった。
 野間は、小林が2回も、来ると宣言しておきながら来なかったことで、また裏切られたような気がして怒りを感じていたからだ。
 察したように星原が言った。
 「小林さんは来なかったな。」
 「ああ。朝の検温でも、来るって言ってたんだけどなぁ。」
 「なんで来ないんだって、聞いておこうか?」
 「いやいや。どうせこの後に病棟行くからいいよ。」
 野間は、星原に任せるときつく言いそうだったし、自分で聞かなくてはとは思っていたので慌てて答えた。

 病棟に行くと、フロアーに小林がいた。また、一人でテレビを見ている。
 「こんにちは。」野間が声をかけると、また慌てることなく落ち着いて答える。
 「こんにちは。一歩の会が終わったんですね。」
 「はい。今回も欠席でしたが、体調が悪いのですか。」
 「ええ。申し訳ありません。けど、もう大丈夫ですので。」
 そう笑顔で答える。

 また野間は、その笑顔に違和感を持った。
 そのため、“聞くのは今だ”そう思った。しかし、聞いて嫌な思いをさせないか。そう思うと躊躇する。
 前回と同じように、散歩に行くために立ち上がろうとする小林。
 “自分の殻を破る”、“自分が傷つくのが怖いだけ”。その言葉が脳裏をよぎった。と同時に、野間は声を発していた。
 「どっ、どうして。どうして、そうにこにこしていられるのでしょうか。怒っているわけではありません。怒っているわけではありませんが、ただ不思議な気がします。不思議な気が。」
 野間は、自分の表情が小林に、怒ったように見えないように意識し、小林の言葉を待った。
 小林は笑顔のままで表情を変えずにこう言った。


(つづく)



 

2014年9月30日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人32

 野間は歩きながら考えた。
 殻をかぶっている。患者さんとの間に壁をつくっているということだろうか。けど、相手を嫌な気持ちにさせたくないというのがなんでいけないんだろう。

 相談室に戻る途中、心理室の前を通ったら、福田が立っていた。それも、不自然に突っ立っている。不思議に思い、声をかけずに通り過ぎようとしたら、固まったまま目も向けず、急に喋りだした。
 「おほん。君は自分が傷つくのが怖いだけじゃないのかね。人と向き合うということは、すなわち自分と向き合うということなのだよ。」
 えっ!と驚いて福田を見ると、「以上。なおこのテープは自動的に消滅する。ドッカーン!」っと大げさに叫んで、冷静な顔で心理室に入っていった。

 野間はあっけにとられた。
 しかし、「自分が傷つくのが怖いからじゃないのか。」と確かに言われた。そしてそれが、ぎゅっと心臓を鷲掴みにしたのも確かだ。人に嫌われたくない。そういう気持ちが自分は強いのかなぁと思ったことはある。しかし、何とはなしに流してきた。それで何とかなってきた。
 けど、精神保健福祉士として人を支援していくには、そうはいかない。
 野間は、気分を害したとしても、ちゃんと小林にぶつけてみよう。そう思った。

 病棟に小林はいなかった。探したがなかなか見つからない。院外に出たのだろうか。
 半分諦めながら歩いていると、不意に小林を見かけた。小林がいたのは、例の病院の大きな墓の前だった。
 野間は、すぐには声をかけず、何をしているのか遠くから見守っていた。しかし、小林は手を合わせるでもなく、ただ佇んでいるだけだった。
 それでも、なんだかその厳粛な雰囲気にのまれ、野間は近づこうにも近づけずにいた。

(つづく)



 

2014年9月25日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人31

 「ただのサボりではないということですか? もしそうなら、そもそもサボりの語源は、」
 「はい。単なる面倒くさいとか、面白くないとか、そういうことじゃなくて。もちろん、退院したくないという気持ちがあるのだとしても、感じるんですよね。もっと深い所からくる違和感を。」
 福田は少し考えて、きっぱりと言った。
 「じゃあ聞けばいいじゃないですか。本人に違和感を感じると言えばいいじゃないですか。そもそも、違和感を媒介に、心的深層意識を現実意識に求めた研究者は、」
 「そっそんなことしてもいいんでしょうか? 相手に嫌な思いをさせないでしょうか?」
 「嫌な思い? それをアスペの僕に聞いていますか? そもそもアスペルガー症候群とは、」
 「あっ。すいません。自分で考えるべきことでもありますよね。けど、なんだか話せてよかったです。ありがとうございました。」
 そう言って別れた後、野間は相談室の前を通り過ぎて、医局棟に向かった。

 医局の部屋に入ると、ビクッと立ち上がる影が見えた。成宮先生だ。
 「おっおぉ。野間君かぁ。びっくりさせるなよ。お前の先輩かと思ったじゃないか。お前らオーラの色が似てんだよ。」
 「はぁ。そうですか? 全く違う人間だと思いますが。」
 「そんなことより、何の用だ? こっちは、机に伏せて瞑想しながら、患者の治療計画を構想していて忙しいんだよ。」
 野間は、ただの居眠りのことね、と思いながら、違和感の正体について聞いてみた。
 すると、「おーっ。いいねぇ。違和感を手繰り寄せて、真実に行き着こうとする姿勢。美しいねぇ〜。」と。
 そして、野間が照れていると、続けてこう言った。
 「ただ皮をかぶりすぎだ。」
 「皮ですか?」
 「そう皮。このヒントについては、お前の先輩に聞いてみろ。僕皮かぶりですかってな! わっはっはっは! リベンジだ! はずかしめて、奴にリベンジしてやる! わっはっはっは!」
 野間が引いて見ていると、冷静になったのか。真顔になって言い直した。
 「いや待て。今のは無しだ。取り消してくれ。倍返しだ!って言ってきそうだよな。うん。やめよう。」とつぶやいた。
 そして、「殻だ。言い間違えたよ。殻をかぶっていると言いたかったんだ。」と言った。
 野間が考え込むと「あとは自分で考えろ」。そう言うと、シッシッと手で追い払われた。

(つづく)




 

2014年9月22日月曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人30

 終了後、野間はすぐに病棟に向かった。小林に会うためだ。

 病棟に入ると、探すまでもなく、目の前のフロアーでテレビを見ている小林を見つけた。
 普通に座っている様子を見て、やっぱりサボりかとがっくりしながら声をかけた。
 「小林さん。」
 小林は、慌てる様子もなく「ああ。こんにちは。」と答えて、またテレビに向き直った。
 「あっ。あの。1回目のグループワークが今終わりました。小林さんは体調不良ということでしたが、もう大丈夫なんですか?
 テレビを見たまま、考えているのか小林の反応がない。しばらく待ったあと、野間が「あのぅ」と話しかけると、今度はさっと小林が振り返った。そして、ニコニコとした笑顔で「はい。大丈夫です。失礼しました。時々、急に気分が悪くなる時があります。疲れのせいかもしれません。けど、今度は体調も整えてちゃんと出たいと思っていますから、よろしくお願いします。」と話した。

 野間は、笑顔で、こちらが望む模範解答をあっさりと口にする姿に違和感を持った。違和感を持ったが、だからどうだという理由は見つけられない。
 散歩に行く、という小林をただ見送った。

 相談室に戻る途中、偶然に福田と会った。
 福田はすぐに今日のグループワーク様子を尋ねてきた。野間は、導入としては上手くいったと思う、として、患者の反応などを伝えた。
 そして、小林が欠席して病棟でテレビを見ていた話をした。
 すると、福田は冷静に答えた。
 「そのように話すということは、野間さんとしてはサボりじゃないかと思っているんですね。私がなぜそう思ったのかというと、」
 「はい。そう思いました。特別体調が悪そうに見えませんでしたから。」
 「なるほど。病棟で普段から様子を見ている野間さんであれば、そういった判断もつくのでしょう。これが仮に私なら、」
 「それから、福田さん。それよりも気になるのは、小林さんは体調不良についてしっかりと説明して、しかも次回はちゃんと出ると笑顔で言うんです。これって何だかおかしくありませんか?」



(つづく)




 

2014年9月16日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人29

 検温の時間が終わり、解散となった時、野間は小林に声をかけた。
 「おはようございます。」
 小林は予想していたかのように、落ち着いた声で応えた。
 「おはようございます。」
 「グループワークに参加を希望していただきありがとうございました。」
 「いいえ。いいリハビリですね。私も頑張ります。」
 そう言って、一礼し立ち去った。

 優等生のような回答。しかし、感情がこもっていない。用意していたセリフを読んだだけのような、そんな印象を持った。

 結局、グループワークの参加患者は7人。
 まあ最初だからこんなものだろう、ということでこれ以上増やさず実施することになった。
 第1回目は、野間が担当して全体のオリエンテーションと、グループづくりのための自己紹介やアイスブレークとして簡単なレクリエーションを行う。
 グループは、「クローズ」で行うため、病棟ではなく、小会議室を借りて行っている。
 ちなみに、「クローズ」は決まった参加者で限定して行う形式のもので、「オープン」は誰でも途中参加できる形式を言う。「クローズ」は、決まった人だけで継続的に話すので、個人的な話をしやすくなる。不安や悩みを吐露するにはクローズグループである必要がある。そのために、場所も閉鎖した空間とする。

 当日、師長と野間の二人でのぞむ。星原や他のスタッフメンバーも参加を希望したが、スタッフが多数になってしまうと、参加患者が委縮し発言しにくくなるため、野間は断った。
 患者の参加は6名。しかし肝心の小林がいない。
 同席している師長も理由は分からないとのことなので、野間がPHSで病棟に電話した。
 電話に出たナースによると、小林は、体調が悪いので欠席すると言ってきたらしい。
 野間は、やはりという気もしながら残念と肩を落とした。しかし、だから中止というわけにも行かず、会を進めることにした。

 師長の演説の後、まずは、このグループを「一歩の会」と命名すると皆の話し合いで決めた。
 自己紹介では、流暢に話す者や、緊張した様子で直立不動で話す者、ボソボソと小声の者などさまざま。
 最後に、ミニゲームをした。緊張した患者にも笑顔が見られて、野間はひとまずホッとした。
 楽しいと感じることは、継続して参加するための、当初の動機づけの1つとなる。


(つづく)



 

2014年9月12日金曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人28

 「集団精神療法は、プログラムをやればいいというものではなく、選定と喚起が肝心です。そもそも、」
 野間があわてて制する。
 「なっなるほど。確かにそうですね。どうするか、みなさんは何かご意見はありませんか?」
 すると、星原が「野間の方で考えてることがあるんだろ。まず出したらどうだ。」と。
 師長も「それがいいわね。野間さん。お願いね」とつづく。
 それならと野間は話し始めた。
 「このグループワークの目的はリハビリです。それには、患者の主体的な参加が必要ですから、一つは全体への参加呼びかけ、それからもう一つが個別の患者への声掛けをしてはどうかと思っています。」
 成宮が「異議なし!」と。
 師長「それじゃあ、病棟のみんなが集まる朝の検温の時に野間さんから言ってくれる?
 「はい。分かりました。」
 そして、個別に患者を誘うのはそれぞれで判断して行うということとなった
 野間は、もちろん、小林を誘うつもりだ。


 次の日の朝の検温。
 「リハビリが目的よ。すぐに退院しなさいということじゃないから不安に思わないでくださいね。」
 そう師長が補足しながら説明した後、野間が具体的な内容を説明。病棟の患者達がじっと耳を傾けていた。もちろん、その中には小林もいる。
 最後に「それでは、今の時点で参加してみようと思う方はいますか?」と尋ねた。
 パラパラと数人が手を上げる。割と若く入院期間の短い人がほとんど。
 野間は、まあ予想通りだなと見渡した。その途中、はっと目を疑った。小林が手をあげていたのだ。
 すぐに退院ではないとはいっても、退院に繋がりそうなプログラムである。それに、個別の勧めもないのに、小林が自ら希望するとは思っていなかった。野間は驚いた。
 あんなに退院に過剰に反応して不穏になったのは何だったのか、不思議でもあった。



(つづく)




 

2014年9月9日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人27

 相談室に戻ると、室長がいたので、一応相談してみた。
 「室長。実は、病棟で集団精神療法をやりたいと思っているんですが、社会資源のところを担当して頂けませんか?」
 「ああ。それはいいね。けど、私は適任じゃないですよ。適任者は誰か分かっているんでしょう?」
 「はぁ。先輩でしょうか?」
 「いや。これを考え出して、進めている人ですよ。」
 「えっ!! いや〜。私にはまだ早いかと。」

 野間がそう言うと、室長の視線が野間の後ろに移った。慌てて振り返ると、ニコニコと笑顔の先輩がいた。
 そして、そのまま歌い出した。
 「♪伊〜代〜は〜まだ〜、16だ〜から〜♪」
 「えっと」野間が何か言おうとすると、「なんて言ってる場合かゴラ〜!! 自分でやりなさい!」と。

 後日、最初のスタッフ同士の話し合いはスムーズだった。福田の独走を制しながら、野間の司会で日程や内容のすり合わせが進んだ。
 成宮先生も思ったより積極的で、前向きな発言が多い。医者の発言は、どうしても重くなる。その意味で、会議の質を決めかねない。
 ただ、始まる前に、こっそり「ちゃんとやるから、お前の先輩に良く言っておいてくれよ」と言われた。先輩恐るべし。

 そのまますんなり終わりそうだったが、やはりそうもいかなかった。
 問題は、参加患者の選定と、意欲の喚起。この点で、福田が口火を切った。


(つづく)




 

2014年8月19日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人26

 少し離れにある作業療法棟に向かう。入ってすぐのスタッフルームを覗くと、作業療法士の星原がいた。星原は野間と同期入職。業務上、関わりが多いせいかややライバル視していると野間は感じていた。良い意味で。
 「おっと。星原。山本室長は?」
 「ああ。まだプログラム中だよ。なんの用事?」
 「う~ん。いや実は、病棟で、長期の患者さんを対象にしたグループワークを始めようとしていてね。」
 「ふーん。いいねぇ〜。それで山本室長を通して俺に参加要請に来たと。」
 野間は、そこまで考えていなかったが、まあそうなる可能性が高いから、気を良くさせておこうと思った。
 「そうそう。そういうこと。星原がいないとと思ってね。」
 「何言っちゃってんだよ〜。何も出ないよ〜。勘弁してくれよ〜。」と嬉しそう。
 「ただし、お前の下につくわけじゃないぞ。」
 「もちろん。対等な協同関係だよ。」
 「よし! じゃあ室長には俺から言っとくから。」
 「おう。サンキュ。じゃあ。近いうちにミーティング設定するからよろしく。」
 「オッケー」

 さて、次はドクターだ。野間は医局に向かう。
 野間が「失礼しま~す。」と医局に入るが誰もいない。けど、まさかと思い成宮先生の机側を覗く。すると、やっぱり。机に伏せている成宮先生を発見した。酒の匂いをさせ、小さく「う~。」とうなっている。明らかに二日酔いだ。
 「先生。大丈夫ですか?」声をかけるとかろうじて聞き取れるぐらいの声で返事が帰ってきた
 「うるさい。静かにしてくれ。俺は今日ちゃんと外来もこなした。今は患者とのやり取りを思い出しながら治療方針を検討中だ。」
 困ったなぁと思っていると後ろから殺気を感じた。慌てて振り返ると、ニヤニヤと嬉しそうな先輩が立っていた。
 「ぷぷぷぷっ。みーつけた。外来でグラングランしてたからさぁ。ぷぷぷぷっ。」先生に聞こえないように囁いて、野間に向けてシーっと合図した。
 先輩が孫の手やマジックを物色して戻ってきたので、野間はとりあえず「では私はこれで」っと帰ろうとした。
 すると、声を殺して先輩が「何よ!これから面白いところなのに。まぁいいわ。それで、ナル先生に何の用だったの?」と言ってきた。
 野間は、山崎から断られたので成宮に頼みに来たのだと説明した。
 すると、「オーケーオーケー。私が了解取っとくわよ。バッチリとね。ぷぷぷぷっ。」と笑った。
 野間は、鳥肌を抑えつつ「では、お願いします。」とその場を去った。医局の方からの「ぎゃー!!」っという悲鳴を聞きながら。

(つづく)



 

2014年8月14日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人25

 「実は、病棟で長期入院患者を対象に、集団療法を意図したグループワークを行いたいと思っているんです。」
 「ほうっ。集団療法? 集団療法とは、単なる集団に対して行われるアプローチですが、意図するところは集団精神療法ですか? それによって、」
 「あっ。はい。その通りです。集団精神療法です。そこで、福田さんにもぜひ参加頂きたくて。」
 「ふむ。いいですよ。心理職ですから、精神療法と聞いて嫌とは言えませんからね。そもそも精神療法の起源は、」
 「よっよかった! それでですね、概要を考えてみたんです。」
 「ほう。」
 「週1の5〜6回程度で1クール。専門家による講義と患者同士の意見交換のセットです。」
 「うむ。スタンダードですね。バランスもまとまりも良いでしょう。ただ、誰を呼ぶかによって、
 「あっと。はい。それはですね。ドクターは成宮先生。看護師は婦長。心理が福田さんで、作業療法士の山本室長。精神保健福祉士が先輩です。」
 「ふむ。まあいいでしょう。妥当ですね。なぜ私が妥当だと言ったかですが、」
 「おっと。そうだ。まだ山本室長に話していないからいそがなくては。それでは、これで。」
 そう言って、野間は、心理室を抜け出した。

 ちなみに、これぐらいあからさまでも福田さんは機嫌を悪くしたりはしない。先輩が最初、このように接しているのを見てびっくりしたが、これがお互いにいいのだと野間も思うようになっていた。

 さて、最後は作業療法士(OT)の山本室長だ。山本室長のことは心配していない。この病院では、珍しく(?)常識的な人だ。ただ、前に出るのが好きではないから、きっと誰かにふるだろうとは思うが。まあそのぐらいだ。

(つづく)




 

2014年8月7日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人24

 「はい。どうぞ。」
 無機質な声が返ってきた。
 野間は、深呼吸し、思い切ってドアを開けて中には入った。
 「おう。これはこれは野間さん。どうしました?」

 中にいたのは、この病院で唯一の心理職、臨床心理士の福田だ。
 中年の小太りの男性。不機嫌なわけではなく、いつも無表情。それに、性格というか、性質にやや問題がある。

 「野間さんが来るということは、ドクターの心理検査の処方箋を持ってきたのですか? いや、それは看護助手の仕事だ。看護助手もこの業務を病棟から出る息抜きに使っているから、そう簡単に代役を頼むはずはない。病棟看護人員も今日は不足ないはずだ。いま病棟で特段大きな病状悪化の患者もいない。ということは、精神保健福祉士の野間さんが持ってくるのは不自然だ。妥当性がない。それとも、患者のコンサルを求めに来たのですか? それとも。」
 「いやいや。実は折り入って相談があって来ました。」

 野間は、予想通りの福田の反応に「出た。めんどくさい。」と心で思った。
 一言言うと、10の理屈が帰ってくる。本人は理論建てているつもりなのだろうが、回りくどくて人を辟易とさせる。そして、それに気づいていない。相手の感情を理解し辛いようで、自分で発達障害のアスペルガー症候群だと公言している。
 ただ、知能指数は明らかに高いらしい。普通100ぐらいであるところを、170あるのだと自慢しているのを聞いたことがある。
 最初の挨拶で、いつも「アスペの心理士、福田です。」と自己紹介をする。これは先輩がアドバイスしたらしい。それ以来、言葉は悪いが、いわゆる先輩になついている。先輩のようにユーモアのある振る舞いをしたいのだそうだ。


(つづく)



 

2014年7月25日金曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人23

 精神保健福祉士は二重拘束を受ける存在だ。精神障害者の側に立って、精神障害者のために働くということと、病院の職員として、病院のために働くということ。
 この二つの立場であるがゆえに、相反することを求められることがある。
 その最たるものが、患者の退院支援だ。

 野間は、岩田に愛想笑いを返して答えた。
 「はい。忙しいですね。やらなきゃいけないことが雪崩のように押し寄せてきます。」
 「そうか。雪崩のように、は良いね。そういえば、君のボスが相談室に人を増やしてくれって言ってきてたなあ。うちも経営が楽じゃないからさ。苦しいんだけど、入院患者が減ったりしなけりゃあ大丈夫だろうと思うよ。減らなきゃあね。」
 野間ははっとした。野間が長期入院患者の退院促進を意図したグループワークを始めようとした矢先。それを牽制するような発言。
 さらに、「民間病院は慈善事業じゃないんだから。」といつもの決まり文句も出た。
 野間は、面倒なので、軽く流すことにした。
 「そうですね。」そう言って、一方的に机に向かった。
 岩田は、一呼吸おいて、釘を指すように「病院のためによろしく。」と言い放って出ていった。

 ふっと一息つくと、ぬっと隣の机の下から先輩が出てきた。
 「やっと出ていったか。」
 「わっ!どこにいたんですか!」びっくりして野間が言うと、「ここにいました」といたずらっぽく笑った。
 「だって、あのソロバン野郎が相談室の中を覗き込むからさぁ。隠れたのよ」
 「そうでしたか。けど私が入ってきたら声はかけてもいいじゃないですか」
 「え~~っ。それじゃつまらないじゃない。てへぺろ。それに、ソロバン野郎が入って来たから出られなかったのよぉ。」


(つづく)



 

2014年7月22日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人22

 野間は、スッキリとしたわけではない。複雑な気持ち。山崎が協力すると言ったわけでもない。けど、前に進む力をもらった気がした。
 よしっと前を向いて歩き始めた。

 相談室に戻り、グループワークの具体的な企画案を考え始めた。
 すると、珍しく事務長の岩田が訪ねてきた。
 「おう。じゃまするよ。忙しそうだね。野間君。」

 岩田事務長は、50代の男性で、背が高く細身で猫背。よく眉間にシワを寄せて、神経質そうな顔で歩いている。
 野間は、病院の採用試験の面接で初めて、この岩田に会った。
 その時、「精神保健福祉士にも病院の経営のことを考えてもらわないといけないから、採用になったらそのつもりで考えてもらえますか?」と質問されたのが印象に残っている。
 もちろん、その時は「はい。もちろんです。考えます!」と答えた。答えはしたが、いやらしい質問する人だなぁと思っていた。
 なぜなら、精神科病院の一番の収入源は入院患者の医療費だ。精神保健福祉士は、精神科病院に長期間入院している患者の退院を促進するために国家資格を与えられた。その精神保健福祉士に経営を考えろと言うのは、つまりあんまり退院させるなよ、ということだ。それを採用試験を受ける弱い立場の精神保健福祉士に言ったわけだ。当然、嫌とは言えない。相手に選択の余地を与えずに、立場を利用して釘を刺したのだ。
 精神保健福祉士として頑張れば頑張るほど、必然的に対立してしまう相手。それが事務長だと言っても言い過ぎではない。

(つづく)



 

2014年7月17日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人21

 野間は、なんの反応もできず聞き入っていた。

 「あはっあはっあはっ。病院を辞める覚悟で、他の先輩や院長に言ったら、医者なら、そんなことは誰にでもあるから気にするなと言われたよ。事故だとね。けど、私の責任だよね。それ以来、ESの機械を手にすることができなくなった。手が震えてね。どうしたらESをやらずにすり抜けられるか、そればっかりを考えてた。」
 野間は聞きながら、山崎先生自身が支援を必要としていると感じた。患者に対してそうしているように、野間は、じっと傾聴の姿勢を示した。
 山崎は続けた。
 「私は仕事をしない怠け者になることにしたんだよ。いや、そうしかなれなかった。」
 野間は、そっと伝えた。
 「そうでしたか。」
 「あはっあはっあはっ。」
 「けど、今は薬物療法が治療の中心ですから、ESをやらなくてもいいのではありませんか。」
 「始まったね。薬物療法は、黒船が来たみたいなもんでね。価値観が一変した。」
 「先生も薬物療法に?」
 「いや。当たり前に処方はするけどね。患者を治してやろうと熱くは思えない。私は怠け者だよ。ここでそれを全うすることが、せめてもの。。。」

 野間には、最後は聞き取れなかったが、何を言ったのかは分かる。
 何も励まさず、何も慰めず、野間はただ聞いていた。
 すると、急に山崎が口を開いた。
 「あはっあはっあはっ。ということでさ。私は何もしないよ。ただし、邪魔もしない。それでいいよね。」
 山崎は、満面の笑顔で言った。
 野間は、なんだかちょっと涙がにじみそうなのをこらえながら、はい!と返事をした。


(つづく)



 

2014年7月8日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人20

 野間は、相づちをうてずに固まった。それを気にせず、山崎は続けた。
 「けど、それはしょうがなかった。それでも僕はやらなきゃいけなかった。」
 「やらなきゃいけなかった?」
 「うむ。ESをね。」
 聞いた瞬間、ドクッと、野間は激しい動悸を感じた。

 広場の片隅で立ち止まり、ただ山崎を見返す。
 風は穏やかで、木漏れ日が指している。いつもなら、散歩をする患者が4〜5人はこの広場を歩いているのだが、今は誰もいない。
 他を排し、話が進むことを、広場自体が見守っているかのよう。

 山崎は、野間の様子を確かめるようにしてから、決心したように続けた。
 「昔はね。精神医学は理論的科学的に未熟だった。それでも、僕みたいな落ちこぼれは、そこに進むしかなかった。同期の奴らに見下され、教授に言われるまでもない。自分で分かっていたよ。初めてと言っていい人生の挫折だよね。ようやく医学部に入ったのにね。家族にさんざんお金かけさせて、期待させといて、それなのに、やっぱり自分に医者は合いませんでした、なんて言えないよね。あはっあはっあはっ。」
 野間は、ようやく視線を外した。
 「つまりさぁ。僕は劣等感の塊。患者を治せない医者。それが僕だ。全然、選ばれた人間ではないよね。」
 山崎は、笑顔を作り、一呼吸おいてから続けた。
 「だから僕は、患者を治したかった。患者のためじゃない。医者としての自分のためにね。当時、ESの科学的な機序は誰にも分からなかったけど、効果があったのは確かだ。僕はESにすがったよ。だから、男の看護人たちに、嫌がる患者を捕まえ、押さえつけさせた。執拗だと思われていたよね。」
 山崎は、もう一度、固まっている野間に視線を向け、また続けた。
 「その患者の時もそうだった。嫌がるのを、いつものように看護人たちに押さえつけさせ、ESをかけた。けど、患者は痙攣しなかったんだ。ただぐったりとして。まれに痙攣しない患者もいるし、どうしたか様子を観察していた。すると、別の患者が急に暴れだしてね。慌ててみんなで向かった。それで、しばらくして戻った時には、もう手遅れだったよ。」



(つづく)




 

2014年7月4日金曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人19

 「野間君。僕ってさぁ。医者だよね。どう思う?僕のこと?」
 唐突な問いで野間は躊躇した。
 「えっと。えっ?」
 「いや、さあ。医者になるためにはさ、何百万どころじゃないお金がかかるよね。ってことはさ、お金待ちの家に生まれないとなれない。極端に言えばね。」
 「はぁ」
 「医学部への入学もさ、人が遊ぶ時間にも、寝る間を惜しんで勉強してさ、入学しても6年もああだこおだとやるわけだ。だから、少なくても10年ぐらいはまともな生活できないんだよね。その頃にはボロボロよ。」
 「はぁ。大変ですね。」
 「大変ってもんじゃないね。ホント。だからリタイアする奴も結構いるのよ。」
 「はぁ。そうですか。」
 「けど、それをくぐり抜けた人が医者になれるわけ。希望者からいえばほんの一握りの人間だよ。分かる?」
 「ええ分かります。」
 「つまりよ。僕はその一握りの選ばれた人間だってわけ。そうでしょ。ねっ!」
 野間は何だか自慢話を聞かされているようで辟易してきた。
 「実際さぁ。医者だって言えば、みんなすごいって言うよ。金もがっぽりで、女はほっておかないしね。」
 野間はあいづちするのも面倒になってきた。しかし、山崎先生は一向に気にせず続ける。
 「もちろん。元からハンサムだっていうこともあるがね。あはっあはっあはっ。」
 うんざりして、野間は、“ウナギ犬みたいな顔して”っと心の中で悪態をつく。
 そして、もう我慢できないと思い、グループワークの話を強引にしようと思った時だった。
 山崎先生が立ち止まって、一転、悲しい表情になった。そして、こう続けた。
 「僕は患者を殺した。この手でね。」


(つづく)



 

2014年7月1日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人18

 一旦去ったが、やっぱり気になる。あの立ち去った影は、山崎先生ではないのだろうか。
 あの時、その場の患者に聞いたら、「ここに患者はいなかった」と答えた。しかし、もしそこにいたのが山崎先生なら、確かにそう答えるだろう。

 野間は、急いでさっきの売店に戻った。
 そして、今度は、離れた場所から患者が集まっているところを観察した。
 じっとその森を見ていると、やけに真新しいスニーカーが見えた。年配者が多いので、スニーカーを履いた患者は珍しくなかったが、こんなに新しいのは買ったらすぐに目につく。最近、スニーカーを買った患者はいない。
 野間は、患者の集まる場所にそっと近づく。そのスニーカーから目を離さず。
 近づくと、その表情、立ち振る舞い、服装、雰囲気。どれをとっても患者にしか見えない。まさに同化している。しかし、山﨑先生だ。
 野間は、患者と同化した山崎先生に声をかけた。
 「先生」
 山崎先生はすぐには反応しなかった。しかし、じっと視線を外さずに待っている野間に観念したのか、「おっと。野間君じゃないか。どうしたの?」と平静をよそおって答えた。
 「グループワークについてお話させてください。」
 「うん。うん。まあちょっと話そう。」
 そう言って、腰を上げ、歩きだした。野間も並びついていく。

 少し歩くと、小学校の体育館程度の広さのやや広めの広場がある。適度に緑があり、草や土のにおいがする。
 「ここは本当に変わらない。頑なに変わることを拒んでいる。そうも思えるなぁ。何十年と変わらないというのは私みたいだ。あはっあはっあはっ」
 「変わらない、ですか?」
 「うんそう。そういえば、どうして僕があそこにいるってわかったの?」
 やっぱり隠れていたな、と思いながら、野間はスニーカーの話をした。
 「おっとそうかぁ。気合入りすぎたか。」
 「え?」
 「あっ、いや、なんでもないよ。あはっあはっあはっ。」

 そこからの先生の話は、野間にとっては意外な内容だった。


(つづく)



 

2014年6月30日月曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人17

 逃げる山崎先生を捕まえてどうなるかは分からないが、とにかく、捕まえるしかない。野間はそう思った。
 先輩が、うれしそうに差し出す投網を押しのけ、病棟に向かう。

 病棟に着くと、患者が誰もいない。がらんとしている。
 一人モップがけをしているヘルパーさんに尋ねると、みんなで売店に買い物に出たらしい。
 野間もとりあえず売店に向かった。

 売店に着くと、店の入り口前のテラスに患者のみんなが座っている。売店が小さいので、そこで待って、交代で数人が店に入る。看護師が手慣れた様子で誘導している。
 その間、離れると目が届きにくいので、患者さんは集められ固まって座って待っている。

 それを見て、野間はふと思った。これは森みたいだと。
 そして、森の中に目を凝らすと、さっと後ろの方に走り去る人影のようなものを見た気がした。慌てて、近くの看護師に伝えた。
 「あれ? 杉さん! いま後ろの方にいた患者さんがどこかに行ったんじゃありませんか? 誰か走り去ったような。」
 「えっ! それは大変だわ!」
 杉さんが慌てて人数を数えだした。
 野間は後ろの方に走って、探したが見当たらない。近くの患者にも聞いてみる。
 「いま、ここにいた患者さんは誰ですか? いなくなりましたよね。」
 「…え? ここに患者はいなかったよ。」
 そう言って、不思議そうな顔をした。嘘を行っているようではない。
 あれ?っと思っていると、杉さんが「やだ野間さん! びっくりさせないでよ。ちゃんとみんないるわよ。も~〜。」と言ってバシバシとはたいてきた。
 野間はとりあえず謝って、その場を去った。



(つづく)




 

2014年6月27日金曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人16

 結局、その日の夕方まで捕まらなかった。しょうがないので、帰宅前に立ち寄る医局前で待つことにした。
 待っていると、ゆうゆうと山崎先生があらわれた。
 「おっ。野間君じゃないですか。どうしたの?」
 白々しいと思いながらも、そこには触れずに野間は答えた。
 「いや。あの。病棟でのグループワークのことですが。」
 「おおっ! そうだったな。」
 わざとらしいオーバーリアクション。
 「そのことは明日にしてよ。今日は、忙しかったんだよねぇ。あはっあはっ!」
 病棟にも来ずに何が忙しかったのやら。しかし、その証拠もない。逃げてるんじゃないかと迫っても、それを認めるわけもない。
 野間は、しょうがないので、その場は諦めた。

 しかし、次の日も、その次の日も、またその次の日も同じだった。
 「腹が痛い」「研修に行く」「家で飼ってる亀が危篤」などなど、帰り際は、様々な理由をつけて帰ってしまう。
 しかも、ペットまで理由に入れられると、他にも際限なく理由は出てきそうだ。
 かといって、日中にどこにいるのか分からない。
 野間は、さては、さぼって院外に出ているんじゃないだろうかと思った。
 そこで、先輩に聞くと、「院内にいるわよ。」と即答。
 「あれ? 先輩は知っているんですか? 山崎先生にがどこに隠れているのか。」
 びっくりして聞くと。
 「そりゃ知ってるわよ。みんな苦労するんだから。あのウナギ犬。あの室長だってそうだったのよ。」
 にこにこと楽しそうに言った。野間は、ダメだろうとは思いながら、一応聞いてみた。
 「先輩。場所を教えてくれたりは。。。」
 先輩はニヤリと笑った。
 「。。。しないですね。はい。了解です。」
 「ただし、ヒントはあげるわよ。いい?」
 「あっ。はい。お願いします。」
 「では、迷える子羊よ。室長語録を授けよう。しかとお聞きなさい。えへん。」
 先輩は、うやうやしく一呼吸おいてから話した。
 「木を隠すなら森へ」
 あれ?野間は、やはりよくわらない。そこで、本題から外れるが疑問をぶつけてみた。
 「ちょっと聞いてもいいですか?」
 「何よぉ。ヒントはあげたでしょ!」
 「あっ。いやいやそのことじゃなくて。純粋な疑問なんですが、先輩はなぜ直接答えを教えてくれないんですか? いや文句ではなくて純粋な疑問です。」
 怒るかなっと思ったが、先輩は冷静に答えてくれた。
 「それはね。答えを教えるのは簡単だけど、簡単なものって中身がスカスカなのよね。」
 「中身がスカスカ、ですかぁ」
 「そうそう。スカスカ。精神保健福祉士って悩むのが仕事、みたいなところがあるでしょ。だから、単に答えを教えるのは、スカスカ指導ってことになるのよ。なんだか、すかしっ屁みたいよね。すかしっ屁ってさぁ、した方は気持ちいいのよね。うふふ。室長が言ってたわ。やだぁ。」
 自分で言っといて、恥ずかしいのかくねくねしだした。

 野間は、それを聞いて、分かったような分からないような。けどまあ、単に面白がっているわけではないのだとは思った。
 そう思っていると、先輩が「もちろん。野間君の反応が面白いっていうのもちょっとはあるかもね。ちょっとはねぇ。私も人間だからさ。」と言った。
 野間は、真面目に言おうとしているが、目が笑ってしまっている先輩を見て、絶対「ちょっと」じゃないな、と思った。



(つづく)




 

2014年6月20日金曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人15

 午後に、病棟で山崎先生を待った。
 ナースステーションで、午前中の先生の反応を伝えたら、師長は苦い笑いの微妙な顔をした。
 理由を聞くと、「まあそのうち分かるわよ。」とのこと。
 今日は、予定では午後はずっと病棟で入院患者の診察や看護師らとの意見交換などを行うはずだ。しかし、なかなか病棟にこない。
 うーん、とうなっていると、看護師の藤さんがナースステーションに入ってきた。
 「あら。野間さん。何してんの?」
 「いや〜。山崎先生を待っているんです。相談したいことがあって。けど、来ないんですよねぇ。いつもならとっくに来ている時間だと思うんですけど。」
 「ふーん。もしかして、相談したいことがあるって言っちゃった?すでに。」
 「えっ。朝に言いましたよ。けどどうしてですか?」
 「なら逃げるわよ。あのウナギ犬。」
 近くで聞いていた師長が、やだ藤さん、と笑っている。
 野間は、まさかと思った。半信半疑でいると、藤さんが続けた。
 「だってさぁ。いま病棟来るとき、逃げるように立ち去る山崎先生とすれ違ったわよ。」
 聞いていた師長は、納得したようにうなずいていた。
 しかし、野間は、信じられなかった。山崎先生はもう70歳も近いベテランの精神科医だ。嫌だからって逃げるか? 子供じゃないんだから。
 とにかく、野間は、医局に向かった。

 医局は病棟とは別棟にある。
 入ると誰もいない。と思ったら奥の机に伏せていた人が顔を上げた。
 「おう。野間君じゃないか。どうした?」
 いたのはナル先生だ。
 「ナル」はもちろん先輩がつけたあだ名だ。ナルシストなのと、よく寝るので睡眠障害のナルコレプシーをかけて、先輩がそうよんでいる。
 「先生。いらしたんですか。」
 「おう。昨日飲み過ぎた。二日酔いだよ。だから、お前の先輩には気づかれるなよ。分かると喜んでちょっかい出しに来るからなぁ。」
 「そうですか。」
 さすが先輩、かな?
 「っで何だって?」
 「ああ。いやじつは、山崎先生を探しているんです。相談したいことがあって。」
 二日酔いで反応が遅いが、先生は思いついたように言った。
 「おお!そういうことかぁ。朝、先生に会ったら、珍しくスニーカーはいてるんだよ。何でか聞いたら、ニヤニヤ笑って、アキレス腱のばして出ていったよ。はっはっは!
 野間は目が点になった。仕事が嫌で逃げ回っているというのは、どうやら本当らしい。

(つづく)



 

2014年6月16日月曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人14

 山崎先生を探す。しかし、やはり見つからない。外来診察の無い時間帯は見つけるのが難しいので、次の日を待つことにした。
 次の日、午前中に外来診察の予定がある。野間は、開始の9時より早く、8時半には外来受付に入って待った。
 外来の看護師たちには、山崎先生に話があるので待たせて欲しいと話すと、捕まえて話すのは無理だろうと笑われた。

 しばらくして、その通りになった。ようやく山崎先生が来たのは、9時を過ぎていたのだ。
 バタバタと自分の担当の診察室に入る先生に話しかける余裕はない。ダメかと諦めかけた時、通りすがりに、先生が急に足を止めた。
 「あれ? 野間君。珍しいですね。どうしたの?」
 野間は、意表を突かれたが答えた。
 「じつは、先生をお待ちしていたんです。」
 「うん? 何か急ぎの用事かい?」
 「あっ。急ぎというほどじゃありませんので、また次回で。」
 先生は完全に体を向き直して、野間に言った。
 「気になるねぇ。本当に時間がないけど、ちょっとだけでいいから何のことか教えて。」
 それならと思い、野間は、とりあえず早口で伝えた。
 「じつは、病棟で長期の方たちを対象にしたグループワークを始めたいと思っているんです。」
 先生の動きが一瞬止まった。そして、「なるほど分かりました。それは僕も何かやるの?」と聞いてきた。
 野間は、「はい。病気の話をしてもらいたいと思っています。」と答えた。
 すると、先生は「なるほど。それは大事な試みだね。じゃあ時間無いから後でね。」と言って診察室に向かった。

 野間は、おっと思った。確かに、大事な試みだと言った。面倒くさいから嫌だと言われるかと思っていたから拍子抜けした感じ。
 先輩のウナギ犬話を聞かされていたので、山崎先生に対して、知らずに偏見を持っていたのかもしれない。そう反省した。

 そこで、相談室に戻って先輩にも言った。
 「先輩。山崎先生にグループワークの話しましたけど、大事な試みだねって言われましたよ。何だか、先輩の話聞いてたからすごい面倒くさがりな先生かと思ってましたよ。」
 先輩は、それを聞いて、「ぷぷぷぷぷっ」と笑いをこらえだした。そして、そのまま「そっかぁ。よかったね。頑張れ、、ぷぷぷぷぷっ」と。
 野間が何がおかしいのか聞いても、いいからいいから、としか答えない。
 室長に振ると、「おっと、悪いですが行かなきゃ」と出ていった。


(つづく)



 

2014年6月9日月曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人13

 次の日。
 野間は、病棟の朝の申し送り後、ナースステーションで二人きりになった時に、師長に話してみることにした。
 「師長さん。ちょっと相談があるんですが。」
 「ん? なあに?」
 「じつは、長く入院している人たちを対象に、病棟でグループワークをやってみたいと思っているんです。」
 「グループワーク?」
 「はい。集団療法とか、集団精神療法とか言ったりもしますが、長期入院患者に退院の意欲を持ってもらったり、地域生活の知識を持ってもらうことを目的にしています。そのために、ドクターによる病気の話とか、看護師による健康的な生活の話とか、心理士による心の持ち方の話とか、薬剤師による服薬の話とか、作業療法士による家事の話とか、精神保健福祉士による社会資源の話とか。そんな知識提供の話と、毎回の患者同士の意見交換の時間を持つんです。不安や悩みを出し合えるように。どうでしょう。」
 「う~ん。それってさぁ。誰を考えてるの? 入院して20年も30年も経ってるような人? 患者を不安にさせるだけなんじゃないかしら? それは困るわよ。」
 やはりそうきたか。野間は、師長がそう言ってくるのを、ある程度予想していた。そのため、説得する言葉を用意していた。
 「確かに、それは心配ですよね。けど、この取り組みは、うちの病院ではまだどこの病棟もやっていない先進的な取り組みなんです。他の病院を見ても、やっている所は少ないんですよねぇ〜。」
 師長の表情が変わった。
 「えっと。野間さん。それほんとかしら? 松田師長の病棟も?」
 師長の眉毛がぴくっと動いた。野間は、よしっと思った。
 「もちろんです。必ずしも退院を目指すということではなく、グループワークは患者のリハビリに非常に効果的だと言われています。しかし、誰もがやれることではありません。相当にリーダーシップのある師長の病棟じゃないと無理でしょうね。あの松田師長もまだやれていません。」
「松田師長もやれていない。ふ~ん。」
 明らかに興味がある様子。なんせ表情に出さないようにしているが、細かく足の貧乏ゆすりが始まった。
 「えっとぉ。まぁ、絶対退院ということではなくリハビリ目的ならいいかもね。そうねぇ。うんうん。」
 野間が、決定だな、と思っていると、はたと師長の貧乏ゆすりが止まった。あれっと思っていると師長が口を開いた。
 「ただ、先生が何と言うかよねぇ。」

 先生とは、ここの病棟担当医の山崎先生のことだ。勤続40年以上のベテラン医師で、あだ名はウナギ犬。そう呼んでいるのは先輩だけだが。
 とにかく、するりするりと仕事をすり抜ける名人。顔もウナギっぽいが、そういう性格なので先輩は陰でそう呼んでいる。最近は、そのあだ名がナースにも伝染し始めているが。
 このウナギ犬、捕まえるのがまずは大変。捕まえても、患者の退院支援のような面倒な事には絶対に近寄らない。それに、へらへらと「患者はここでこのまま死ぬのが幸せなんですよ~。あはっあはっ」と公言してはばからない。
 とにかく、野間は、師長に、自分から山崎先生に説明させて欲しいと了解を得た。


(つづく)



2014年6月3日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人12

 病棟に着くと、老齢の看護師がいた。
 「藤さん。ちょっとお聞きしたいことが。」
 声をかけると、看護師はちょっと慌てていた。警戒してもいるようにも見える。
 「なに、なに? なによ。」
 「あの」
 話し出そうとした時、遮るようにして藤さんが言った。
 「古いカルテのことなら、私は忘れちゃったわよ。もう年なんだからぁ。もっと若い人に聞いてちょうだい。」
 ピシャリと言い放って後ろを向いた。
 野間は粘ろうと思って言った。
 「いや。昔のことじゃなくていいんです。1年前ぐらいに見たESのことなんです。」
 藤さんは、予期していたかのように、すぐに答えた。
 「もう忘れちゃったわよ。」
 「えっ?」
 「はい。おしまいおしまい。忙しいのよ。私。」
 そう言って、追い払われた。

 こう強硬だと野間には何も言えない。
 ESのことは心に引っかかっているが、そこにこだわっていては前に進めないような気もする。
 正直、ESの理解をしなければ、絶対に小林さんの退院を進められないとまでは思ってはいなかった
 野間は、しばらく間を置いてから、また聞いてみることにした。

 長期入院患者の退院支援について、野間には、じつは試したいことがあった。
 それは、グループワークだ。病状的に退院可能な患者を対象にしたグループを作り、働きかける。
 例えば、医者による病気の話や、栄養士による栄養指導、作業療法士による調理や食品購入、そして、精神保健福祉士による社会資源の説明など。
 このような知識提供とともに、患者相互の話し合いで不安要素について出し合い、支え合いながら解消していく。
 こうして、長期入院患者の退院への意欲を高めるのだ。


(つづく)


2014年5月29日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人11

 野間は、脳の深く、芯の部分に麻酔を打たれたかのように、脳全体がジンジンとしびれるような感覚になった。ショックで目の前がくらむ。
 「難しいでしょ。」主任がそう言って、視線を向けてくる。
 気づかれないように、かろうじて「そうですね」と答えた。


 あの時から、一年以上が経つが答えは出ていない。というか、そのことにまだ怖くて向き合えていない。

 うつむく野間を見て、先輩が言った。
 「小林さんのことね。退院支援について考えているんでしょ。」
 野間は、ハッとして顔を上げた。
 「何で分かったんですか?!」
 「当たり前だのクラッカー。そりゃ分かるわよ。いい? 前にも言ったと思うけど、室長語録によれば、クライエントを理解するには、クライエントの過去、歴史を理解することが必要よ。古い患者さんの多くは、ESを受けていたの。小林さんもESを受けていたのでしょう。ESは入院患者にものすごい影響を与えたわ。良くも悪くもね。ESを理解することは、小林さんを理解する一歩になると思うわ。
 野間はうなずいた。けど、どう理解すればいいのか。
 それを察して、先輩が言った。
 「言っとくけど、私に聞いたって分からないわよ。当事者に聞きなさい。当事者にね。もちろん、患者自身だけが当事者じゃないわよ。」
 そう言って笑った。

 野間にはすぐに思い浮かぶ顔があった。
 野間は、急いで立ち上がり病棟に向かった。


(つづく)



2014年5月26日月曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人10

 「先輩は電気ショック療法ってどう思いますか?」
 「え? ESね。」
 「はい。」
 「う~ん。そうねぇ。どうかなぁ。けど何で?」
 「いや。実は今日、病棟の倉庫にあった古いカルテを見たら、カルテに『ES』というゴム印がたくさん押されているのを見ました。それを見たら、怖いような申し訳ないような気持ちになって。」


 そう話しながら、野間は思い出していた。
 あれはこの病院に就職してすぐの事だった。主任に連れられ、色々な病棟にあいさつ回りをしている時、ある病棟のドクターが、これからESやるけど見ていくか、と聞いてきた。
 貴重な体験である。野間はすぐに、見たいと答え、急ぎ足のドクターや何人かの看護師のあとについていく。程なく保護室に着いた。

 保護室とは、症状の重い患者を、一時的に隔離するための個室のことだ。観察のためのカメラが設置され、厳重に鍵がかけられる。ベッドとトイレ以外何もない。

 入口付近に着くと、中から怒鳴り声が聞こえる。
 「おい! 俺はどこも悪くねぇよ。キチガイ扱いするんじゃねぇ!!」
 それに対応して、冷静な声。
 「落ち着きなさい。いい? あなたは、どうしてここに連れてこられたか分からないのですか?
 「うるせえ! そんなの知らねぇよ!」
 野間は、ドキドキしながらも、入口に立つドクターや看護師らの隙間から中を覗いた。
 狭い個室の中では、目が血走った大柄な男性患者と看護師がいた。
 看護師は70歳ぐらいだろうか。小柄な老齢の看護師。冷静な声で話している。
 「あなたのために言っているの。このままだと色んな人を傷つけるし、それは回ってあなた自身を傷つけることになるのよ。」
 口調は冷静ながら、一歩も引かない迫力に押されたのか、患者が口ごもる。
 老齢の看護師が「このベッドに横になりなさい。」と言うと、「何だこのやろう!」など抵抗しながらも、なんとか横になった。
 老齢の看護師がにらみ続ける中、別の看護師たちが、素早く口に木片を噛ませ、こめかみにジェルを塗った。間髪入れず、ドクターの掛け声。看護師たちが一斉に手をはなし、一歩後ろに下がる。ドクターは両手に持った電極で患者のこめかみを挟む。患者は、弾かれたように痙攣をし始めた。「ゔーっ! ゔーっ!」何度も何度も唸りながら。やがて、痙攣が収まり、体が硬直し始める。胸はこれでもかというほどのけぞり、手足はこれ以上ないくらいに伸びている。それを、ベッドサイドで冷静に抑える看護師たち。老齢の看護師は、腕時計の針を見て時間を測っている。
 しばらくして、「かはーっ」大きく息が吐き出され、体の硬直が解けた。
 すると、看護師たちが、手慣れた手つきで、木片を外したり、おむつを履かせたりしている。患者は完全に気を失っているようだ。

 野間は、出てきたドクターと目が合った。あっけにとられている野間にドクターが言った。
 「これで終了。どうだ? 驚いただろう?」
 野間は声が出せなかった。それを見て、ドクターは更に続けた。
 「これは善か悪か? どっちだろうか?」
 そう言って、ニヤリとして去っていった。


(つづく)


2014年5月22日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人9

 その日は、あえてその病棟は避けて、医療相談室での事務作業で時間を過ごした。
 野間はまだ、あのカルテの記録をどう捉えていいのかわからずにいたからだ。

 夕方になり、「おつかレンコン、おつかレンコン」っと先輩が帰ってきた。
 野間は、カルテのことを言おうか迷った。
 しかし、カルテを見て、怖くなって逃げ帰ってきたなんてやっぱり言い出せない。

 野間が、無意識に、「う〜〜ん。」とうなっていると、嬉しそうに近寄ってきた。
 「悩める青年よ。いいね。いいよそのうなりっぷり。いっぱしの精神保健福祉士って感じするねぇ。」
 先輩は、そう言って笑った。
 野間は、自分がうなっているのに気づいていなかったので、恥ずかしくなった。
 それを見て、先輩が続けた。
 「よろしい。今日は気分もいいし、室長語録を授けてしんぜよう。
 そう言って、話し始めた。
 「おほん。人を支援しようとするとき、悩んでしまうのは当然。完全に他人を理解できる人なんていないからね。むしろ、悩まない支援者は、弱くて独善的で未熟な支援者よ。なぜなら、そんな支援者は、必然的にクライエントを見下してしまうゲス野郎だからだ! オーイェー!」
 のってきたらしい。
 「つまり、飛べない豚、もとい、悩まない豚はただの豚だってことだぜ〜! 分かったかいフィオ。それじゃあ俺はカーチスの野郎と一戦交えてくるぜ!」

 先輩は、ここまで言って振り返り、引き気味の野間を見て正気に戻ったのか。振り上げていた腕をおろし、椅子にゆっくりと腰を下ろした。
 そして、落ち着いた声で「えっと。それからね。等身大の自分を受け入れなさい。」一息ついて、「以上、愛の伝道師が送る室長語録でした。」そう言って、微笑んだ。

 等身大の自分を受け入れる。確かにそうだ、野間は納得した。
 ありのまま先輩に話してみようと思った。


(つづく)


2014年5月19日月曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人8

 倉庫に入るとあまり開けないからか、ずいぶんほこりっぽい。
 右手下を見ると、言われたとおりに背の低い棚があった。上や前には、ホコリ被ったダンボールがたくさん。前のダンボールをどかし、ほこりを払い、腰をかがめて覗き込む。中には、ぎっしりとカルテらしきものが詰まっているのが見えた。しかも無造作に、向きもバラバラに寝かして詰め込まれているので、名前が書かれているであろう背表紙が見えない。それに、背表紙が見えていても名前がないものも多い。
 貴重な記録として残しているというよりは、とりあえずしまっているといった感じだ。
 この病棟に入院している全ての患者のカルテなのだろうか。いやそれにしては多すぎる。

 野間は、とりあえず手前にある一冊を取り出してみることにした。
 随分と分厚く、片手では到底つかみきれない。
 何とか引っ張り出して、近くのダンボールの上に乗せた。
 そのカルテの束は、紐で荷造り風に十文字に縛られている。即席で作られたような背表紙を見ると、マジックで「山田太郎、昭和31年〜昭和62年」とだけ書いてある。
 昭和31年に入院して、昭和62年に退院したということだろうか。
 確かに、この患者はこの病棟にはいない。そう思いながら、野間は自分が少し興奮しているのを感じた。
 なぜなら、昭和30年代といえば、日本に抗精神病薬のクロルプロマジンが導入され、薬物療法が始められた時期だからだ。薬物療法は、精神科医療を一変させるほどの進歩をもたらした。
 それまで、大きな効果のある治療法がほとんど無く、精神科医療は困難を極めていた。薬物療法は現代に続く、近代精神科医療の出発点とも言えよう。
 この患者は、その大きな転換点に入院していたということだ。もちろん、野間も全く知らないわけではない。精神保健福祉士になるための授業で歴史を学んだことはある。しかし、やはりそれは教科書に書けるだけのきれいな情報でしかない。
 つまり、このカルテには大きな歴史の真実が書かれてあると言っても言い過ぎではないだろう。

 野間は、ドキドキと期待しながら、紐を解いた。
 1番表にある新しい紙をはがすと、茶色く変色した表紙が出てきた。触るとポロポロと崩れてしまいそう。
 時代の経過を感じさせるとともに、期待も高まる。
 一枚をそっとめくるとフェイスシート部分で、患者の顔写真や住所、生年月日など書かれている。それも筆でカタカナ書きだ。さらに期待が高まる。

 しかし、パラパラと数枚めくっところで、その期待は一気に冷めた。それどころか、無意識に眉間にシワがより、体が硬直する。
 野間は、反射的に閉じてしまった。慌てて紐で結び直して、元の所にしまい、逃げるように倉庫を出た。「急ぐので」そう言い残して、病棟を駆け出た。
 野間は、とにかく、一刻も早く遠ざかりたい。その一心だった。


(つづく)



2014年5月12日月曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人7

 野間は、それ以上そのことを聞くことはできず立ち止まった。
 なぜ患者さんを殺しかけたのか、なんて、そんなこと冗談でも口にできない。人を殺しかけた話に触れるのが怖い気もしたし、それが現実に精神保健福祉士に起こったことも信じられなかった。
 頭がごちゃごちゃと混乱し、麻痺したようだ。

 反応しない野間を見て、室長は「いずれわかります。」と言った。
 そして、立ち去ろうとして思いとどまり、もう一言しっかりとした声で言った。
 「でも大丈夫。支えてもらえますよ。彼女にね。私もそうでした。

 室長を支えた彼女?
 野間には誰のことを言っているのか分からなかった。ただ考えがまとまらず呆然としてしまった。


 次の日、室長のことは引っかかったままだが、一旦置いておいて、野間は小林の退院支援について考えることにした。
 まず最初にやるべきこと。それは、主治医の判断を確認することだ。どんなに精神保健福祉士が退院可能だと考えても、治療上の責任者は主治医にある。そして、可能なら主治医と意見交換ができるのが望ましい。単に主治医の指示で動くのではなく。それが、チーム医療だ。
 とは言っても、小林さんの主治医はあの人だ。一筋縄では行かない。しっかりとした主張ができなければ。

 そこで、取りあえず小林のカルテを見てみることにした。本人を理解するためにも必要だからだ。
 「クライエントを理解するには、その生きてきた歴史を知ることが不可欠。」と、室長語録帳を紐解いた先輩から教えてもらったことがある。
 野間は、病棟に向かった。
 病棟に着くと、ナースステーションには、高齢の看護婦さんが1人。
 精神科の長期入院患者がいる病棟には、高齢の看護師が多い。他の公立病院を定年後に再就職で来たという人も珍しくない。
 長期入院病棟の変化の無さには、そのような看護師が合うということか。それとも、そのような看護師でも務まるということか。
 ただ、精神科における慢性的な看護師不足があるのは事実だ。
 そして、老齢の者は変化を好まない。

 野間は、看護師に声をかけた。
 「藤さん。小林さんのカルテを見たいんですが、どこにありますか?」
 「え? この棚にあるでしょ。」
 「あっ。すいません。ここにある5年分の前のものを全部見たいんです。支援に役立つと思うので。」
 そう言うと、うーん、と面倒くさそうに唸った。
 「それ以前のって言ったって、何十年とあるのよぉ。大変よぉ。」
 「それでも見たいんです。」
 野間も食い下がる。
 すると、「しょうがないわねぇ。病棟の廊下の奥の倉庫知ってる? そこの右側の背の低い棚の奥に入ってるわ。はいこれ。」と言って鍵を渡してくれた。
 野間は、やれやれと思いながらも、お礼を言って鍵を受け取った。


(つづく)


2014年5月6日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人6

 相談室に戻る途中、室長を見かけた。屋外の小さなテラスで椅子に座ってタバコを吸っている。隣には、年老いた患者さん。
 無言で二人してタバコを吸っているが会話は無い。神妙に静かに。

 その雰囲気に配慮して、野間はそっと後ろを通り過ぎようとした。
 すると、急に話が始まった。室長の声だ。
 「約束通り、聞くぞ。いいか。」
 患者さんは慌てることもなく、顔を上げて静かに答えた。
 「ああ。分かっているよ。聞いてくれ。」
 室長はうなずいた。
 「入院して40年になるな。そろそろ退院してみないか?」
 一呼吸おいて、患者さんが答えた。
 「俺はまだ退院しないよ」
 すると、室長はあっさりと、「そうか。分かったよ。じゃあまたな。」
 そう言い残して、あっさりと席を立った。
 立ち上がったところで野間と目が合った。

 「おっ!」そう言って、一緒に歩きだした。
 歩きながら、懐かしそうに、「あの患者とは長いんですよ。私がここに来た時からいる。はっはっは。こう見えても、私も若かった時があるんですよ。」と言った。

 ジョーダンのつもりのようだったが、野間はもやもやしていて笑えなかった。
 そんなに長く入院している人の退院への働きかけが、あんなぶっきらぼうであっさりしたものだなんて。

 野間は、思い切ってこのもやもやをぶつけてみた。
 「室長! 本当にあの患者さんを退院させたいなら、もっと説得の方法が何かあるんじゃないですか? あんなにあっさり引き下がったらダメなんじゃないでしょうか。」

 室長は、そのまましばらく歩き、前を向いたままでつぶやくように。
 「私は、彼を殺しかけたんです。」そう言って、悲しそうに微笑んだ。



(つづく)


2014年4月25日金曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人5

 おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなった時、当然葬式が行われた。
 泣き崩れる母に寄り添って、野間は、後悔が頭の中を満たしていくのを感じた。おじいちゃんやおばあちゃんに、もっとこうしていれば、ああしていれば。亡くなってしまった後には、もうどうしようもないことを。
 呆然としている野間に、いつも無口な父が一言だけ言った。
 「泣きなさい。」その声は優しくも強かった。
 野間は、それをきっかけに母と手を取り合って泣いた。

 泣き終えて、静まり返った火葬場で待つ間、考えた。葬式をしたり墓を立てることは、亡くなった人のためではあるが、それは結局、残された人のためなんじゃないか。そのような儀式を経て、残された人は自分の気持ちを整理する。否認、後悔、怒り、悲しみ、寂しさ。
 この無縁仏の墓もそうだろうか。
 この墓が、病院の職員、一緒に入院していた患者さんたちに、しょうがなかったんだという気持ちの整理をもたらしているのだろうか。
 もしそうなら、それは危険なことかもしれない。なぜなら、そう気持ちを整理することで、職員の退院への働きかけが滞ったり、患者さんたちの退院したいという気持ちを低下させることにもなるんじゃないか。諦めを強化するということだ。
 それはいけない。諦めてはいけない。

 野間は顔を上げ、くるりと墓に背を向けた。そして、歌を口ずさみながら一歩踏み出した。
 口ずさんだ歌は、もちろん水戸黄門の〆の部分。

 「♬泣ーくーのーが、いーやーなーらー、さーあ、あーるーけ〜〜♬」


(つづく)



2014年4月18日金曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人4

 病院の裏手には大きな大きな墓石がある。表面には何か書いてあるようだが、宗教用語なのか読めない。
 野間も何だろうかと以前から気になってはいた。

 その前に仁王立ちに立って、先輩が言った。
 「こら!後輩!この墓前でもそんな軽口がきけるのかい!こちらにおわすお方をどなたと心える。先の副将軍、水戸の光圀公にあらせられるぞ!ひかえおろ〜!」
 野間が、リアクションに困っていると説明してくれた。

 「えっと、ここはね、この病院で亡くなった患者さんの中で、身寄りが無かったり、家族が引き取りを拒否した人たちの遺骨をおさめているお墓よ。無縁仏ね。」

 野間は驚いた。そのような患者さんたちがいるのは想像できたが、実際にその墓を見ると、圧倒されてしまう。
 先輩は続けた。
 「ここに入っている人たちの多くは、簡単に言うと寿命よね。高齢で亡くなったわ。死亡退院よ。退院をかなえることなくね。中には、退院について考えることも、退院したいと言うことさえも許されず、胸の奥深くにそっと閉じ込めて、ついには行ってしまった方もいるでしょう。」
 野間は、静かに聞いていた。
 それを確認するようにしてから、急に、先輩は去っていった。歌いながら。
 「♬じーんせーい、楽ありゃ苦ーもあーるーさー♬」

 残された野間は、しばらくそこから動けなかった。
 なぜなら、不意に、すでに亡くなった自分の、大好きなおじいちゃんやおばあちゃんの顔が浮かんできて、その墓石に重なったからだ。
 ぐっと涙をこらえていた。



(つづく)

2014年4月15日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人3

病棟を出て、医療相談室に戻ると先輩がいた。
「おかえりんご〜!」

相変わらずの陽気さに少し引きながらも、それでもほっとさせてくれる雰囲気を持っている。若くて美人だし、精神保健福祉士としての経験も知識もある。
ただ、不思議なのは、医療相談室の室長を崇拝していることだ。
室長は、小太りで中年のおじさん。いつもフラフラと病院内を放浪していて、とても崇拝されるような精神保健福祉士には見えない。けど、先輩によれば、室長はカリスマ精神保健福祉士らしい。室長から教わったという言葉を書き溜めている“室長語録帳”が先輩の宝物だ。
野間は、この精神科病院に就職して2年、いくら先輩に説明されても理解できない。いまでは、その話になると面倒くさいので、あまり触れないようにしている。

「先輩。」
「なんだね後輩。」
「西の1病棟に入院している小林さんってご存知ですか?」
「ああ。知ってるわよ。何かあったの?」
「はい。実は今日、私と退院の話をしていた高橋さんが、近くに座っていた小林さんにも退院を勧めたんです。小林さんは無理だと言うのに引かずに。私も、なんで退院したくないのかって聞きました。そしたら小林さんが不穏になっちゃって。」
「そっかぁ。それは、長期入院患者あるあるだね。」
「そうですよね。しかしまぁ。退院がそんなに不安なんですね。」
「そりゃあ、何十年も暮らしている、慣れ親しんだ所から出て、全く新しい所に行くのって、誰でも不安になるわよ。」
「そうですね。無理せず、そっとしておくのがいいんでしょうね。

それを聞いて先輩の動きが止まった。そして、急にこわい顔になって言った。
「ちょっとついてきなさい!」
先輩は相談室を出て、病院の裏手に向かった。


(つづく)


2014年4月8日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人2

 平静を装い、野間は答えた。
 「あっ。いや。どうしたんですか?」
 「どうしたもこうしたもないわよ。さっき、動揺した感じで小林さんが私に言いに来たのよ。僕を退院させないでくださいってね。どうしてって聞いたら、さっき野間さんと話して、って言ったのよ。あなた退院するように言ったんじゃないでしょうねぇ!」
 野間が、「あっ」と思い出したように言うと、更に怒鳴り声が続いた。
 「小林さんが何年入院してるか分かってるの?30年以上よ!あなたがまだ生まれるずっと前から、小林さんはここにいるの。外の世界も知らず、そんなに長く入院している患者が退院なんてできるわけはないでしょう!」
 野間は、圧倒されながらも何とか口を開いた。
 「ちょ、ちょっと待ってください。私は退院を勧めていませんよ。
 そう言うと、師長は驚いた顔をして止まった。
 「今日、病棟を歩いていたら高橋さんから声をかけられましたが、ちょうど引っ張られて座ったところに小林さんがいたんです。高橋さんの訴えは退院したいという話だったんですが、そのやり取りの中で、高橋さんが小林さんに退院したいだろう、と声をかけました。」
 師長は素直にうなずきながら話を聞いている。
 「小林さんは、退院は無理だというのですが、高橋さんが食い下がったんです。それで、私もなぜ無理だと思ってるんですか、と聞いてみました。答えませんでしたけどね。それだけです。なので、別に勧めたわけではありませんよ。」
 「ふーん。なるほど。そうだったのね。」
 そう言ってから、ころっと表情を和らげて言った。照れ隠しもあるのだろう。
 「私もそう思ったのよ。野間さんがいきなり小林さんに退院を勧めるなんておかしいなと。はっはっは!」

 師長の良い所は、思い込みは激しいが、すぐに修正できるところであると野間は評していた。猪突猛進だが、正義感が強いので味方につければとても心強い。

 とにかく、この局面を抜けられて、野間はほっとした。ほっとはしたが、けど引っかかるものがあった。
 病状的には問題ないのに退院をしたがらない小林さんと、それをガッチリと肯定して保護している師長。
 そして、この様な特殊な組み合わせは、二人に限った話ではない。この病棟全体、いやこの病院全体、いやもっと大きく、日本の精神科病院全体のあちらこちらで起こっているのではないか
 野間は漠然とそう感じた。


(つづく)


2014年4月4日金曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人1

 病棟フロアーのテーブル。向かい合わせに座っている小林は、ただいつものように微笑んでいた。
 隣に座る高橋の話を聞くともなく、時折、うなづきながら。
 高橋は、この精神科病院から退院したいと訴えている。
 ただ、退院を訴えている相手は、小林ではなく、隣に座る精神保健福祉士の野間だった。
 野間は、精神保健福祉士として、患者である高橋の話に耳を傾けていた。

 さっき、野間は、高橋に病棟で呼び止められ、たまたま座った所に小林がいた。意図せず、小林も加わって、男三人で話す形になった。

 「だからおれは退院したいんだよ。」
 「そうですか。病気も良くなったんだから退院できるはずだということですね。」
 「そうそう。そうだよ。」
 「主治医の先生はなんて言ってるんですか?」
 「山本先生は、もう少し幻聴が治まってから考えようって。もう少し様子を見てからだってさぁ。」
 「なるほど。幻聴が聞こえるんですね。」
 「いやいや。オレのは幻聴じゃないよ。たぶん。いや聞こえるから。本当の声が。」

 少し表情が弱くなった。自分でも幻聴を自覚し始めているのかもと野間は思った。精神障害の回復には、幻聴を消し去ることも大事だが、聞こえていたとしても、それが幻聴であると自覚できることも大事だ。自覚できると、それに振り回されることはなくなる。振り回されなければ、生活に支障が出ないから、それも回復と言って良いだろう。
野間がそんなことを考えていると、ふと、高橋は、小林に向き直り、「なぁ。小林さんも退院したいだろ」と言った。
 すると、小林は表情を変えず「僕には無理です。」と即答した。
 「無理ってどういうことだよ。小林さんは、何も問題ないだろうよ?」

 確かにカルテを見ても、随分長い間、精神症状らしきものは出ていない。入院期間は35年間と長く、年齢も67歳と高いが、体も健康だし、病棟の掃除や配膳、声をかければ病院敷地内の掃き掃除もすすんでやってくれる。
 野間も退院できるんじゃないかと思った。

 そこで、「なぜ退院できないと思っているんですか?」と聞いてみた。
 しかし、微笑んだままで答えない。

 その日の夕方、野間は看護師長に呼ばれた。
 看護師長は、大柄な中年の女性。豪快な言動は時に人を傷つけるが、本人はいたって気にしていない。
 その看護師長からだったので、ドキドキしながらナースステーションに行くと、いきなり怒鳴られた。
 「あなたねぇ! 小林さんに何言ったのよ!!」
 地下から響くような怒鳴り声に、野間は飛び上がりそうになった。

(つづく)


 

2014年4月1日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人(はじめに)

 以前、精神科病院での実習を終えた学生から、指導者である精神保健福祉士から受けたとする指導内容を聞いて愕然とした。一種の焦燥感のような、危機感のような、そんな感情を持った。
 その学生によると、精神科病院勤務のその精神保健福祉士はこう言ったそうだ。

 「私はね。患者を退院させることに傾きすぎた今の日本の状況をおかしいと思ってます。もっと冷静に、客観的にその患者が退院できるかを判断するべきだと思うんです。

 確かに一見正論に聞こえる。
 しかし、それを精神障害を持ち、過酷な環境を強いられてきた方々に対して言えるだろうか。家族や人生を奪われてきた人々に言えるのだろうか。
 私は、偏っていると言われても、それでも退院を推し進めるべきであると思う。
 もちろん、どのような方法で、どのような速度で、といったことは個別化されなければならない。ついには退院に至れない方もいるだろう。
 しかし、病院で一生を終えてもいいなどと精神保健福祉士が判断できることではないし、するべきではない。
 私が精神科病院で出会った、退院が叶わずに亡くなった多くの患者さんを思うといたたまれない

 今回の物語は、この想いが原点となっている。
 読み終えた方々が、精神科病院に長期間入院している方々の早期退院を願わずにはいられなくなることを目指して書き進めたい。