2019年11月28日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人6

 相談室に戻る途中、室長を見かけた。屋外の小さなテラスで椅子に座ってタバコを吸っている。隣には、年老いた患者さん。
 無言で二人してタバコを吸っているが会話は無い。神妙に静かに。

 その雰囲気に配慮して、野間はそっと後ろを通り過ぎようとした。
 すると、急に話が始まった。室長の声だ。
 「約束通り、聞くぞ。いいか。」
 患者さんは慌てることもなく、顔を上げて静かに答えた。
 「ああ。分かっているよ。聞いてくれ。」
 室長はうなずいた。
 「入院して40年になるな。そろそろ退院してみないか?」
 一呼吸おいて、患者さんが答えた。
 「俺はまだ退院しないよ」
 すると、室長はあっさりと、「そうか。分かったよ。じゃあまたな。」
 そう言い残して、あっさりと席を立った。
 立ち上がったところで野間と目が合った。

 「おっ!」そう言って、一緒に歩きだした。
 歩きながら、懐かしそうに、「あの患者とは長いんですよ。私がここに来た時からいる。はっはっは。こう見えても、私も若かった時があるんですよ。」と言った。

 ジョーダンのつもりのようだったが、野間はもやもやしていて笑えなかった。
 そんなに長く入院している人の退院への働きかけが、あんなぶっきらぼうであっさりしたものだなんて。

 野間は、思い切ってこのもやもやをぶつけてみた。
 「室長! 本当にあの患者さんを退院させたいなら、もっと説得の方法が何かあるんじゃないですか? あんなにあっさり引き下がったらダメなんじゃないでしょうか。」

 室長は、そのまましばらく歩き、前を向いたままでつぶやくように。
 「私は、彼を殺しかけたんです。」そう言って、悲しそうに微笑んだ。


(つづく)



2019年11月19日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人5

 おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなった時、当然葬式が行われた。
 泣き崩れる母に寄り添って、野間は、後悔が頭の中を満たしていくのを感じた。おじいちゃんやおばあちゃんに、もっとこうしていれば、ああしていれば。亡くなってしまった後には、もうどうしようもないことを。
 呆然としている野間に、いつも無口な父が一言だけ言った。
 「泣きなさい。」その声は優しくも強かった。
 野間は、それをきっかけに母と手を取り合って泣いた。

 泣き終えて、静まり返った火葬場で待つ間、考えた。葬式をしたり墓を立てることは、亡くなった人のためではあるが、それは結局、残された人のためなんじゃないか。そのような儀式を経て、残された人は自分の気持ちを整理する。否認、後悔、怒り、悲しみ、寂しさ。
 この無縁仏の墓もそうだろうか。
 この墓が、病院の職員、一緒に入院していた患者さんたちに、しょうがなかったんだという気持ちの整理をもたらしているのだろうか。
 もしそうなら、それは危険なことかもしれない。なぜなら、そう気持ちを整理することで、職員の退院への働きかけが滞ったり、患者さんたちの退院したいという気持ちを低下させることにもなるんじゃないか。諦めを強化するということだ。
 それはいけない。諦めてはいけない。

 野間は顔を上げ、くるりと墓に背を向けた。そして、歌を口ずさみながら一歩踏み出した。
 口ずさんだ歌は、もちろん水戸黄門の〆の部分。

 「♬泣ーくーのーが、いーやーなーらー、さーあ、あーるーけ〜〜♬」


(つづく)


2019年11月13日水曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人4

 病院の裏手には大きな大きな墓石がある。表面には何か書いてあるようだが、宗教用語なのか読めない。
 野間も何だろうかと以前から気になってはいた。

 その前に仁王立ちに立って、先輩が言った。
 「こら!後輩!この墓前でもそんな軽口がきけるのかい!こちらにおわすお方をどなたと心える。先の副将軍、水戸の光圀公にあらせられるぞ!ひかえおろ〜!」
 野間が、リアクションに困っていると説明してくれた。

 「えっと、ここはね、この病院で亡くなった患者さんの中で、身寄りが無かったり、家族が引き取りを拒否した人たちの遺骨をおさめているお墓よ。無縁仏ね。」

 野間は驚いた。そのような患者さんたちがいるのは想像できたが、実際にその墓を見ると、圧倒されてしまう。
 先輩は続けた。
 「ここに入っている人たちの多くは、簡単に言うと寿命よね。高齢で亡くなったわ。死亡退院よ。退院をかなえることなくね。中には、退院について考えることも、退院したいと言うことさえも許されず、胸の奥深くにそっと閉じ込めて、ついには行ってしまった方もいるでしょう。」
 野間は、静かに聞いていた。
 それを確認するようにしてから、急に、先輩は去っていった。歌いながら。
 「♬じーんせーい、楽ありゃ苦ーもあーるーさー♬」

 残された野間は、しばらくそこから動けなかった。
 なぜなら、不意に、すでに亡くなった自分の、大好きなおじいちゃんやおばあちゃんの顔が浮かんできて、その墓石に重なったからだ。
 ぐっと涙をこらえていた。



(つづく)



 

2019年11月5日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人3

 病棟を出て、医療相談室に戻ると先輩がいた。
 「おかえりんご〜!」

 相変わらずの陽気さに少し引きながらも、それでもほっとさせてくれる雰囲気を持っている。若くて美人だし、精神保健福祉士としての経験も知識もある。
 ただ、不思議なのは、医療相談室の室長を崇拝していることだ。
 室長は、小太りで中年のおじさん。いつもフラフラと病院内を放浪していて、とても崇拝されるような精神保健福祉士には見えない。けど、先輩によれば、室長はカリスマ精神保健福祉士らしい。室長から教わったという言葉を書き溜めている“室長語録帳”が先輩の宝物だ。
 野間は、この精神科病院に就職して2年、いくら先輩に説明されても理解できない。いまでは、その話になると面倒くさいので、あまり触れないようにしている。

 「先輩。」
 「なんだね後輩。」
 「西の1病棟に入院している小林さんってご存知ですか?」
 「ああ。知ってるわよ。何かあったの?」
 「はい。実は今日、私と退院の話をしていた高橋さんが、近くに座っていた小林さんにも退院を勧めたんです。小林さんは無理だと言うのに引かずに。私も、なんで退院したくないのかって聞きました。そしたら小林さんが不穏になっちゃって。」
 「そっかぁ。それは、長期入院患者あるあるだね。」
 「そうですよね。しかしまぁ。退院がそんなに不安なんですね。」
 「そりゃあ、何十年も暮らしている、慣れ親しんだ所から出て、全く新しい所に行くのって、誰でも不安になるわよ。」
 「そうですね。無理せず、そっとしておくのがいいんでしょうね。

 それを聞いて先輩の動きが止まった。そして、急にこわい顔になって言った。
 「ちょっとついてきなさい!」
 先輩は相談室を出て、病院の裏手に向かった。


(つづく)