2019年12月17日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人7

 野間は、それ以上そのことを聞くことはできず立ち止まった。
 なぜ患者さんを殺しかけたのか、なんて、そんなこと冗談でも口にできない。人を殺しかけた話に触れるのが怖い気もしたし、それが現実に精神保健福祉士に起こったことも信じられなかった。
 頭がごちゃごちゃと混乱し、麻痺したようだ。

 反応しない野間を見て、室長は「いずれわかります。」と言った。
 そして、立ち去ろうとして思いとどまり、もう一言しっかりとした声で言った。
 「でも大丈夫。支えてもらえますよ。彼女にね。私もそうでした。

 室長を支えた彼女?
 野間には誰のことを言っているのか分からなかった。ただ考えがまとまらず呆然としてしまった。


 次の日、室長のことは引っかかったままだが、一旦置いておいて、野間は小林の退院支援について考えることにした。
 まず最初にやるべきこと。それは、主治医の判断を確認することだ。どんなに精神保健福祉士が退院可能だと考えても、治療上の責任者は主治医にある。そして、可能なら主治医と意見交換ができるのが望ましい。単に主治医の指示で動くのではなく。それが、チーム医療だ。
 とは言っても、小林さんの主治医はあの人だ。一筋縄では行かない。しっかりとした主張ができなければ。

 そこで、取りあえず小林のカルテを見てみることにした。本人を理解するためにも必要だからだ。
 「クライエントを理解するには、その生きてきた歴史を知ることが不可欠。」と、室長語録帳を紐解いた先輩から教えてもらったことがある。
 野間は、病棟に向かった。
 病棟に着くと、ナースステーションには、高齢の看護婦さんが1人。
 精神科の長期入院患者がいる病棟には、高齢の看護師が多い。他の公立病院を定年後に再就職で来たという人も珍しくない。
 長期入院病棟の変化の無さには、そのような看護師が合うということか。それとも、そのような看護師でも務まるということか。
 ただ、精神科における慢性的な看護師不足があるのは事実だ。
 そして、老齢の者は変化を好まない。

 野間は、看護師に声をかけた。
 「藤さん。小林さんのカルテを見たいんですが、どこにありますか?」
 「え? この棚にあるでしょ。」
 「あっ。すいません。ここにある5年分の前のものを全部見たいんです。支援に役立つと思うので。」
 そう言うと、うーん、と面倒くさそうに唸った。
 「それ以前のって言ったって、何十年とあるのよぉ。大変よぉ。」
 「それでも見たいんです。」
 野間も食い下がる。
 すると、「しょうがないわねぇ。病棟の廊下の奥の倉庫知ってる? そこの右側の背の低い棚の奥に入ってるわ。はいこれ。」と言って鍵を渡してくれた。
 野間は、やれやれと思いながらも、お礼を言って鍵を受け取った。


(つづく)

2019年11月28日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人6

 相談室に戻る途中、室長を見かけた。屋外の小さなテラスで椅子に座ってタバコを吸っている。隣には、年老いた患者さん。
 無言で二人してタバコを吸っているが会話は無い。神妙に静かに。

 その雰囲気に配慮して、野間はそっと後ろを通り過ぎようとした。
 すると、急に話が始まった。室長の声だ。
 「約束通り、聞くぞ。いいか。」
 患者さんは慌てることもなく、顔を上げて静かに答えた。
 「ああ。分かっているよ。聞いてくれ。」
 室長はうなずいた。
 「入院して40年になるな。そろそろ退院してみないか?」
 一呼吸おいて、患者さんが答えた。
 「俺はまだ退院しないよ」
 すると、室長はあっさりと、「そうか。分かったよ。じゃあまたな。」
 そう言い残して、あっさりと席を立った。
 立ち上がったところで野間と目が合った。

 「おっ!」そう言って、一緒に歩きだした。
 歩きながら、懐かしそうに、「あの患者とは長いんですよ。私がここに来た時からいる。はっはっは。こう見えても、私も若かった時があるんですよ。」と言った。

 ジョーダンのつもりのようだったが、野間はもやもやしていて笑えなかった。
 そんなに長く入院している人の退院への働きかけが、あんなぶっきらぼうであっさりしたものだなんて。

 野間は、思い切ってこのもやもやをぶつけてみた。
 「室長! 本当にあの患者さんを退院させたいなら、もっと説得の方法が何かあるんじゃないですか? あんなにあっさり引き下がったらダメなんじゃないでしょうか。」

 室長は、そのまましばらく歩き、前を向いたままでつぶやくように。
 「私は、彼を殺しかけたんです。」そう言って、悲しそうに微笑んだ。


(つづく)



2019年11月19日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人5

 おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなった時、当然葬式が行われた。
 泣き崩れる母に寄り添って、野間は、後悔が頭の中を満たしていくのを感じた。おじいちゃんやおばあちゃんに、もっとこうしていれば、ああしていれば。亡くなってしまった後には、もうどうしようもないことを。
 呆然としている野間に、いつも無口な父が一言だけ言った。
 「泣きなさい。」その声は優しくも強かった。
 野間は、それをきっかけに母と手を取り合って泣いた。

 泣き終えて、静まり返った火葬場で待つ間、考えた。葬式をしたり墓を立てることは、亡くなった人のためではあるが、それは結局、残された人のためなんじゃないか。そのような儀式を経て、残された人は自分の気持ちを整理する。否認、後悔、怒り、悲しみ、寂しさ。
 この無縁仏の墓もそうだろうか。
 この墓が、病院の職員、一緒に入院していた患者さんたちに、しょうがなかったんだという気持ちの整理をもたらしているのだろうか。
 もしそうなら、それは危険なことかもしれない。なぜなら、そう気持ちを整理することで、職員の退院への働きかけが滞ったり、患者さんたちの退院したいという気持ちを低下させることにもなるんじゃないか。諦めを強化するということだ。
 それはいけない。諦めてはいけない。

 野間は顔を上げ、くるりと墓に背を向けた。そして、歌を口ずさみながら一歩踏み出した。
 口ずさんだ歌は、もちろん水戸黄門の〆の部分。

 「♬泣ーくーのーが、いーやーなーらー、さーあ、あーるーけ〜〜♬」


(つづく)


2019年11月13日水曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人4

 病院の裏手には大きな大きな墓石がある。表面には何か書いてあるようだが、宗教用語なのか読めない。
 野間も何だろうかと以前から気になってはいた。

 その前に仁王立ちに立って、先輩が言った。
 「こら!後輩!この墓前でもそんな軽口がきけるのかい!こちらにおわすお方をどなたと心える。先の副将軍、水戸の光圀公にあらせられるぞ!ひかえおろ〜!」
 野間が、リアクションに困っていると説明してくれた。

 「えっと、ここはね、この病院で亡くなった患者さんの中で、身寄りが無かったり、家族が引き取りを拒否した人たちの遺骨をおさめているお墓よ。無縁仏ね。」

 野間は驚いた。そのような患者さんたちがいるのは想像できたが、実際にその墓を見ると、圧倒されてしまう。
 先輩は続けた。
 「ここに入っている人たちの多くは、簡単に言うと寿命よね。高齢で亡くなったわ。死亡退院よ。退院をかなえることなくね。中には、退院について考えることも、退院したいと言うことさえも許されず、胸の奥深くにそっと閉じ込めて、ついには行ってしまった方もいるでしょう。」
 野間は、静かに聞いていた。
 それを確認するようにしてから、急に、先輩は去っていった。歌いながら。
 「♬じーんせーい、楽ありゃ苦ーもあーるーさー♬」

 残された野間は、しばらくそこから動けなかった。
 なぜなら、不意に、すでに亡くなった自分の、大好きなおじいちゃんやおばあちゃんの顔が浮かんできて、その墓石に重なったからだ。
 ぐっと涙をこらえていた。



(つづく)



 

2019年11月5日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人3

 病棟を出て、医療相談室に戻ると先輩がいた。
 「おかえりんご〜!」

 相変わらずの陽気さに少し引きながらも、それでもほっとさせてくれる雰囲気を持っている。若くて美人だし、精神保健福祉士としての経験も知識もある。
 ただ、不思議なのは、医療相談室の室長を崇拝していることだ。
 室長は、小太りで中年のおじさん。いつもフラフラと病院内を放浪していて、とても崇拝されるような精神保健福祉士には見えない。けど、先輩によれば、室長はカリスマ精神保健福祉士らしい。室長から教わったという言葉を書き溜めている“室長語録帳”が先輩の宝物だ。
 野間は、この精神科病院に就職して2年、いくら先輩に説明されても理解できない。いまでは、その話になると面倒くさいので、あまり触れないようにしている。

 「先輩。」
 「なんだね後輩。」
 「西の1病棟に入院している小林さんってご存知ですか?」
 「ああ。知ってるわよ。何かあったの?」
 「はい。実は今日、私と退院の話をしていた高橋さんが、近くに座っていた小林さんにも退院を勧めたんです。小林さんは無理だと言うのに引かずに。私も、なんで退院したくないのかって聞きました。そしたら小林さんが不穏になっちゃって。」
 「そっかぁ。それは、長期入院患者あるあるだね。」
 「そうですよね。しかしまぁ。退院がそんなに不安なんですね。」
 「そりゃあ、何十年も暮らしている、慣れ親しんだ所から出て、全く新しい所に行くのって、誰でも不安になるわよ。」
 「そうですね。無理せず、そっとしておくのがいいんでしょうね。

 それを聞いて先輩の動きが止まった。そして、急にこわい顔になって言った。
 「ちょっとついてきなさい!」
 先輩は相談室を出て、病院の裏手に向かった。


(つづく)

2019年10月29日火曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人2

 平静を装い、野間は答えた。
 「あっ。いや。どうしたんですか?」
 「どうしたもこうしたもないわよ。さっき、動揺した感じで小林さんが私に言いに来たのよ。僕を退院させないでくださいってね。どうしてって聞いたら、さっき野間さんと話して、って言ったのよ。あなた退院するように言ったんじゃないでしょうねぇ!」
 野間が、「あっ」と思い出したように言うと、更に怒鳴り声が続いた。
 「小林さんが何年入院してるか分かってるの?30年以上よ!あなたがまだ生まれるずっと前から、小林さんはここにいるの。外の世界も知らず、そんなに長く入院している患者が退院なんてできるわけはないでしょう!」
 野間は、圧倒されながらも何とか口を開いた。
 「ちょ、ちょっと待ってください。私は退院を勧めていませんよ。
 そう言うと、師長は驚いた顔をして止まった。
 「今日、病棟を歩いていたら高橋さんから声をかけられましたが、ちょうど引っ張られて座ったところに小林さんがいたんです。高橋さんの訴えは退院したいという話だったんですが、そのやり取りの中で、高橋さんが小林さんに退院したいだろう、と声をかけました。」
 師長は素直にうなずきながら話を聞いている。
 「小林さんは、退院は無理だというのですが、高橋さんが食い下がったんです。それで、私もなぜ無理だと思ってるんですか、と聞いてみました。答えませんでしたけどね。それだけです。なので、別に勧めたわけではありませんよ。」
 「ふーん。なるほど。そうだったのね。」
 そう言ってから、ころっと表情を和らげて言った。照れ隠しもあるのだろう。
 「私もそう思ったのよ。野間さんがいきなり小林さんに退院を勧めるなんておかしいなと。はっはっは!」

 師長の良い所は、思い込みは激しいが、すぐに修正できるところであると野間は評していた。猪突猛進だが、正義感が強いので味方につければとても心強い。

 とにかく、この局面を抜けられて、野間はほっとした。ほっとはしたが、けど引っかかるものがあった。
 病状的には問題ないのに退院をしたがらない小林さんと、それをガッチリと肯定して保護している師長。
 そして、この様な特殊な組み合わせは、二人に限った話ではない。この病棟全体、いやこの病院全体、いやもっと大きく、日本の精神科病院全体のあちらこちらで起こっているのではないか
 野間は漠然とそう感じた。


(つづく)


2019年10月24日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人1

 病棟フロアーのテーブル。向かい合わせに座っている小林は、ただいつものように微笑んでいた。
 隣に座る高橋の話を聞くともなく、時折、うなづきながら。
 高橋は、この精神科病院から退院したいと訴えている。
 ただ、退院を訴えている相手は、小林ではなく、隣に座る精神保健福祉士の野間だった。
 野間は、精神保健福祉士として、患者である高橋の話に耳を傾けていた。

 さっき、野間は、高橋に病棟で呼び止められ、たまたま座った所に小林がいた。意図せず、小林も加わって、男三人で話す形になった。

 「だからおれは退院したいんだよ。」
 「そうですか。病気も良くなったんだから退院できるはずだということですね。」
 「そうそう。そうだよ。」
 「主治医の先生はなんて言ってるんですか?」
 「山本先生は、もう少し幻聴が治まってから考えようって。もう少し様子を見てからだってさぁ。」
 「なるほど。幻聴が聞こえるんですね。」
 「いやいや。オレのは幻聴じゃないよ。たぶん。いや聞こえるから。本当の声が。」

 少し表情が弱くなった。自分でも幻聴を自覚し始めているのかもと野間は思った。精神障害の回復には、幻聴を消し去ることも大事だが、聞こえていたとしても、それが幻聴であると自覚できることも大事だ。自覚できると、それに振り回されることはなくなる。振り回されなければ、生活に支障が出ないから、それも回復と言って良いだろう。
野間がそんなことを考えていると、ふと、高橋は、小林に向き直り、「なぁ。小林さんも退院したいだろ」と言った。
 すると、小林は表情を変えず「僕には無理です。」と即答した。
 「無理ってどういうことだよ。小林さんは、何も問題ないだろうよ?」

 確かにカルテを見ても、随分長い間、精神症状らしきものは出ていない。入院期間は35年間と長く、年齢も67歳と高いが、体も健康だし、病棟の掃除や配膳、声をかければ病院敷地内の掃き掃除もすすんでやってくれる。
 野間も退院できるんじゃないかと思った。

 そこで、「なぜ退院できないと思っているんですか?」と聞いてみた。
 しかし、微笑んだままで答えない。

 その日の夕方、野間は看護師長に呼ばれた。
 看護師長は、大柄な中年の女性。豪快な言動は時に人を傷つけるが、本人はいたって気にしていない。
 その看護師長からだったので、ドキドキしながらナースステーションに行くと、いきなり怒鳴られた。
 「あなたねぇ! 小林さんに何言ったのよ!!」
 地下から響くような怒鳴り声に、野間は飛び上がりそうになった。

(つづく)


2019年10月19日土曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人(はじめに)

 以前、精神科病院での実習を終えた学生から、指導者である精神保健福祉士から受けたとする指導内容を聞いて愕然とした。一種の焦燥感のような、危機感のような、そんな感情を持った。
 その学生によると、精神科病院勤務のその精神保健福祉士はこう言ったそうだ。

 「私はね。患者を退院させることに傾きすぎた今の日本の状況をおかしいと思ってます。もっと冷静に、客観的にその患者が退院できるかを判断するべきだと思うんです。

 確かに一見正論に聞こえる。
 しかし、それを精神障害を持ち、過酷な環境を強いられてきた方々に対して言えるだろうか。家族や人生を奪われてきた人々に言えるのだろうか。
 私は、偏っていると言われても、それでも退院を推し進めるべきであると思う。
 もちろん、どのような方法で、どのような速度で、といったことは個別化されなければならない。ついには退院に至れない方もいるだろう。
 しかし、病院で一生を終えてもいいなどと精神保健福祉士が判断できることではないし、するべきではない。
 私が精神科病院で出会った、退院が叶わずに亡くなった多くの患者さんを思うといたたまれない

 今回の物語は、この想いが原点となっている。
 読み終えた方々が、精神科病院に長期間入院している方々のことを想い、早期退院を願わずにはいられなくなることを願って書き進めたい。

 

(つづく)