2019年10月24日木曜日

精神保健福祉士と自由を望まぬ人1

 病棟フロアーのテーブル。向かい合わせに座っている小林は、ただいつものように微笑んでいた。
 隣に座る高橋の話を聞くともなく、時折、うなづきながら。
 高橋は、この精神科病院から退院したいと訴えている。
 ただ、退院を訴えている相手は、小林ではなく、隣に座る精神保健福祉士の野間だった。
 野間は、精神保健福祉士として、患者である高橋の話に耳を傾けていた。

 さっき、野間は、高橋に病棟で呼び止められ、たまたま座った所に小林がいた。意図せず、小林も加わって、男三人で話す形になった。

 「だからおれは退院したいんだよ。」
 「そうですか。病気も良くなったんだから退院できるはずだということですね。」
 「そうそう。そうだよ。」
 「主治医の先生はなんて言ってるんですか?」
 「山本先生は、もう少し幻聴が治まってから考えようって。もう少し様子を見てからだってさぁ。」
 「なるほど。幻聴が聞こえるんですね。」
 「いやいや。オレのは幻聴じゃないよ。たぶん。いや聞こえるから。本当の声が。」

 少し表情が弱くなった。自分でも幻聴を自覚し始めているのかもと野間は思った。精神障害の回復には、幻聴を消し去ることも大事だが、聞こえていたとしても、それが幻聴であると自覚できることも大事だ。自覚できると、それに振り回されることはなくなる。振り回されなければ、生活に支障が出ないから、それも回復と言って良いだろう。
野間がそんなことを考えていると、ふと、高橋は、小林に向き直り、「なぁ。小林さんも退院したいだろ」と言った。
 すると、小林は表情を変えず「僕には無理です。」と即答した。
 「無理ってどういうことだよ。小林さんは、何も問題ないだろうよ?」

 確かにカルテを見ても、随分長い間、精神症状らしきものは出ていない。入院期間は35年間と長く、年齢も67歳と高いが、体も健康だし、病棟の掃除や配膳、声をかければ病院敷地内の掃き掃除もすすんでやってくれる。
 野間も退院できるんじゃないかと思った。

 そこで、「なぜ退院できないと思っているんですか?」と聞いてみた。
 しかし、微笑んだままで答えない。

 その日の夕方、野間は看護師長に呼ばれた。
 看護師長は、大柄な中年の女性。豪快な言動は時に人を傷つけるが、本人はいたって気にしていない。
 その看護師長からだったので、ドキドキしながらナースステーションに行くと、いきなり怒鳴られた。
 「あなたねぇ! 小林さんに何言ったのよ!!」
 地下から響くような怒鳴り声に、野間は飛び上がりそうになった。

(つづく)


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